読書の厄介なところは、読み込めば読み込むほど解らなくなることである〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)
汲めども尽きぬとか読めば読むほど味が出るといった本こそ無人島に持って行く一冊かな(@_@;)

【読んだ本】

倉本一宏(全現代語訳)『藤原行成「権記」(中)』(講談社学術文庫,2012)

山根對助&後藤昭雄(校注)『江談抄』(後藤&池上洵一&山根[校注]『新日本古典文学大系32
江談抄 中外抄 富家語』[岩波書店,1997]所収)の同書85頁脚注30を引く〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)

    額の字を書くことは書家にとってはなはだ名誉なことであった。[藤原]佐理が
    正四位下、従三位に叙せられたのは、ともに殿門の額を書いた功に依る。

藤原佐理と並んで「三蹟」に数えられている藤原行成についても、黒板伸夫(日本歴史学会編集)
『藤原行成』(吉川弘文館人物叢書,1994新装版)113頁に同旨(^^)

    ・・・/[長保2年(1000年)]十月十一日、新造の内裏への[一条天皇の]
    還幸が行われ、それに続く行事で、[藤原]行成は多忙を極める。/また
    新造内裏の殿舎・門の書額は行成が命ぜられて奉仕したものであった。
    二十一日に造営関係者の叙位があったが、彼も書額の賞により正四位下を
    授けられている。/・・・

ちなみに、藤原佐理は既に長徳4年(998年)に亡くなってる(⌒~⌒)ニヤニヤ 何のことか分らない人は
昨日の記事(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-03-10 )をv( ̄∇ ̄)ニヤッ

倉本一宏(全現代語訳)『藤原行成「権記」(上)』(講談社学術文庫,2011)を見ると、この額を
書くのを藤原行成は嫌がったのか(@_@;) 藤原佐理の怨霊を恐・・ヘ(__ヘ)☆\(^^; 同書380頁から
長保2年(1000年)7月15日条、同書381頁から同16日条のそれぞれ関連ありそうな件を引く(⌒~⌒)

     十五日、庚寅。 殿舎の門額を運送させる

    ・・・官掌[かじょう](丹波)得任[ありとう]を指名し、史(和気)元倫の許に
    遣わした。殿舎の門額を運送させることについて、この事には堪えられないという
    ことを、昨日、奏上させた。天皇の許容は無かった。そこで運ばせたものである。/
    ・・・

     十六日、辛卯。 内裏造営により山陵使を発遣/道長の上表に勅答/源倫子に位記を
             下給/霊厳寺妙見像の彩色/殿舎の門額を書く

    ・・・/今日から殿舎の門額を書き始めた。この事には堪えられないうえに、憚るところ
    も有ったので、去月十六日以来、そのことを奏上させた。すでに天皇の恩許は無かった。
    そこで無理に書いているところである。

同書459~462頁の長保2年(1000年)10月21日条は「行成、正四位下に叙せられる」と見出しにある
けど、該当する記述が見当たらない(@_@;) 黒板伸夫・前掲書巻末「略年譜」は長保2年(1000年)
10月に「二一日、正四位下(新造内裏書額賞)。」(同書284頁)と〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

長保3年(1001年)10月9日には東三条院詮子(一条天皇の母)四十歳算賀で、一条天皇が土御門第に
行幸され、10日に藤原行成も「東三条院御賀院司の賞」(黒板伸夫・前掲書285頁)で従三位に叙せ
られているが、黒板伸夫に言わせると、コレは書道の才のお陰もある由(前掲書269頁)( ̄◇ ̄;)

    ・・・試みに彼が従三位に到達した三十歳という年齢を他と比べてみると、
    公任・斉信・実資がいずれも三十四歳、源俊賢は四十三歳であり、書額賞
    などが大きく影響していることを窺わせる。/・・・
 
藤原行成のスタートライン(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-03-09 )を
考えると、凄いことだよね( ̄◇ ̄;) 藤原公任はスタートダッシュは良かったけど(^_^;)ちなみに、
黒板伸夫・前掲書135~136頁の解説も引いとく(⌒~⌒)

    ・・・/行成は[長保3年(1001年)]八月に参議に任ぜられ、現任公卿(議政官)
    の地位を得ているが、四位と三位では非常に格が異なる。『外記日記』等の公的記録
    においては、参議であっても四位の場合は、例えば「藤原行成朝臣」と記すが、
    三位以上になれば「藤原行成卿」と称するのである。昔からみれば三位の重さは
    かなり薄らいではいるものの、やはり上級貴族以外は中々近づける位階ではない。
    令制の「貴」(従三位以上)・「通貴」(四・五位)という区分はまだ生きている
    わけである。/・・・

黒板伸夫・前掲書157頁に「さて話は戻って長保五年(一〇〇三)十月、天皇は落成した新造内裏に
遷るが、行成はこの内裏の諸殿門の額を書き、それによって十一月五日の造営叙位で正三位に叙せら
れた。」(「略年譜」には「一一月五日、正三位(造宮叙位)。」[黒板伸夫・前掲書287頁])と
あるので、倉本一宏(全現代語訳)『藤原行成「権記」(中)』(講談社学術文庫,2012)から関連
すると思しき長保5年(1003年)7月3日条(本書287頁)、同10月3~5日条(本書300頁)を(@_@;)
なお、正三位に叙された11月5日条(本書303頁)の引用は省略した〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

     三日、辛卯。 内裏殿門の額を書く/式部省試

    今日、初めて内裏の額を書いた。先ず紫宸殿、次に承明門である。 /
    「今日、式部省試が行なわれた」と云うことだ。題は、「涼風が蒸暑を撤する」
    である〈題の中に韻を取った。百字で篇を成した。〉。

     三日、己未。 内裏殿門の額を献上

    今日の夕方、行事所から史生(出雲)忠茂が来て、伝えたことには、「額を明日、
    一条天皇が覧られる。籠って候宿するように」ということだ。そこで紫宸殿・承明門・
    仙華門の額を献上させた。

     四日、庚申。 内裏殿門の額を書く

    世尊寺に赴いて、額を書いた。

     五日、辛酉。 内裏殿門の額を書く/山陵使

    内裏から召しが有った。額の遺[のこ]りを書いていたので、参らなかった。
    □山陵使が出立した。

謎なのは、長保5年(1003年)7月3日条の「今日、初めて内裏の額を書いた」の「初めて」(@_@;)
国際日本文化研究センター「摂関期古記録データベース」の訓読文では「今日、初めて額を書く」と
なっており、「内裏の」は倉本一宏が現代語訳化の際に補ったものだろうが、冒頭に引いたように、
長保2年(1000年)7月16日条には「今日から[内裏の]殿舎の門額を書き始めた」と記してるから、
「(内裏の)額を書く」のは「初めて」ではない(@_@;) 長保2年(1000年)7月16日条の訓読文は
「今日より題額を始む・・・仍りて憖ひに題する所なり」だし、実は「書」いてないのかな(@_@;)
他方で、「今日、初めて内裏の額を書いた」と書いてから3ヶ月も経った長保5年(1003年)10月4日
条に「額を書いた」、同5日条に「額の遺りを書いていた」と記しているのも変な気がする(@_@;)
「紫宸殿・承明門・仙華門」以外の内裏の門の額を10月4日&5日に書いたということなのか(@_@;)