読書の厄介なところは、読み比べの愉しさに気付いてしまうことである〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

【読んだ本】

木船重昭『笠間注釈叢刊13 後撰和歌集全釈』(笠間書院,1988)所蔵本
片桐洋一(校注)『新日本古典文学大系6 後撰和歌集』(岩波書店,1990)所蔵本
工藤重矩(校注)『和泉古典叢書3 後撰和歌集』(和泉書院,1992)所蔵本

木船重昭のを何と無く読んでて目が留まった、よみ人知らずの歌を引く〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

     「菊の花をれり」とて、人の言ひ侍りければ

    いたづらに 露におかるる 花かとて 心も知らぬ 人やをりけん

      「だれかが、菊の花を折り盗った」と言って、人がこぼしたので

     ご主人に目をかけてもらえず、むなしく露に置かれている花か、と思って、
     賞[め]でていらっしゃるご主人のお心も分からない人が、
     折り盗ったのでしょうか。心ないことですねえ。

木船重昭は【補説】で次のように指摘してて、実際この歌の前の数首の解釈も面白いけど省略(^_^;)

    ・・・諸抄[←先行する各注釈書を指す]見落としているが、「花を折る」には、
    女をわがものにする意を託すばあいが多く、当歌も、〈花〉に女を暗示し、
    「あなたにつれなくされてさみしがっている女[ひと]か、と思って、だれかが
    盗んだのかねえ。あなたの気も知らないでさ。ご用心、ご用心。」という俳諧味を
    きかせた歌、と解するのが、このところの歌排列からも、ふさわしいであろう。/

片桐洋一はこの歌を「どうせ、空しく露に置かれて濡れている花であるよと思って、心を理解しない
人が折ってしまったのでありましょうか」と訳しており、「心」を花の主の心ではなく「花」の心と
解して、次のように脚注で述べている(^_^;)

    空しく涙に濡れている女だと思って、何もおわかりにならない人が折られたのでしょう、
    私と同じように……という気持をこめて訳してみたが、無駄に置いている露だとばかり
    思って、菊の花に置いている不老長寿の薬になるとも知らぬ人が手折ったのでしょうか、
    と解することも出来る。・・・

工藤重矩はこの歌を「見捨てられ無為に露に濡れている花かと思って、花の主の気持を知らない人が
折ったのでしょうか」と訳して、その意を頭注で次のように解説している(^_^;)

    [花を折ったことを花の主から]咎められた当人の謝罪の歌。他人ごとめかしている
    ところが興。

三者三様の解釈で、読み比べると、メチャ愉しいね(〃'∇'〃) 片桐洋一は「菊の露が不老長寿の薬に
なる」ことについて、この歌の二つ後にある紀友則の歌を参照するよう脚注も、小生が連想したのは
伊勢タンの歌でもなく『紫式部日記』の一節で、源雅信の娘で藤原道長の妻の倫子が「道長と通じた
紫式部に対する憤り」、「自分よりは若いが、もう三十路を半ばを過ぎて、若い娘でもあるまいに、
すこしは齢というものを考えてごらん、そういった痛烈な皮肉」などを込めた言葉を添えて(萩谷朴
『日本古典評釈・全注釈叢書 紫式部日記全注釈 上巻』[角川書店,1971])、紫式部に「菊の綿」を
贈った件だった(^_^;) 紫式部を神聖視してる宮崎莊平(全訳注)『紫式部日記(上)』(講談社学術
文庫,2002)は「・・・『日記』のこのくだりから、式部に向けられた倫子の敵意とか嫉妬とか、残余
のことは読みとれまい。」と否定に躍起で、これまた読み比べは愉しい〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

[追記210222]

解釈する上で大事なポイントを書き忘れたけど、『後撰和歌集』巻第七の秋下に入っている歌m(__)m