「西村監督」で検索すると入力補助のトップは「焼肉」( ̄◇ ̄;)ナニソレ!? 当該記事は開幕前に遠征先で
選手に外出禁止令を自ら出しながら焼き肉を食べに外出したのがバレて選手から総スカンを食らってる
という内容だったヒィィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ 2番目に「辞めろ」と表示されるからファンからも総スカン(@_@;)

【読んだ本(バカチン2人)】

小和田哲男『戦国大名と読書』(柏書房,2014)

読了(^o^)丿 既に本書の内容を忘れてしまったので、せめて目次をメモっておこうと思う(ノ_-;)トホホ…

    はじめに

    一、教育者としての禅僧の役割

     武将子弟の寺入り
     上杉謙信を育てた天室光育
     上杉景勝・直江兼続を育てた北高全祝
     今川義元・徳川家康を育てた太原雪斎
     伊達政宗を育てた虎哉宗乙

     [コラム]戦国軍師の鳥占い

    二、どのような書物を読んでいたか

     玉木吉保の「身自鏡」から
     「庭訓往来」の世界
     「実語教」と「童子教」
     必読書だった「四書」「五経」
     「貞永式目」が読まれたのはなぜか

     [コラム]桶狭間の戦いと情報

    三、実践に応用された「武経七書」

     「武経七書」とは
     北条早雲と孫子の兵法
     毛利元就と呉子の兵法
     武田信玄と「風林火山の軍旗」
     黒田官兵衛と孫子の兵法
     羽柴秀吉と孫子の兵法
     徳川家康による兵法書の印刷

     [コラム]小谷城は焼けていない

    四、戦国武将にとっての占筮術

     五経の筆頭に挙げられる『易経』
     足利学校の易学
     軍配思想と易筮
     徳川家康と閑室元佶の易筮

     [コラム]足利義政にライバル心を持った信長

    五、幅広く読まれた中国の典籍

     武田信繁の家訓から
     「三史」といわれた『史記』『漢書』『後漢書』
     『詩経』の読まれ方
     直江兼続の『古文真宝後集抄』の書写
     徳川家康も学んだ『貞観政要』

     [コラム]明智光秀謀反の真相

    六、『平家物語』と『太平記』

     毛利・吉川氏と『平家物語』『太平記』
     北条早雲と『太平記』
     上井覚兼の『太平記』読み聞かせ
     家康が読んだのは『源平盛衰記』

     [コラム]小牧・長久手の戦いで秀吉が勝てなかった理由

    七、武将たちはなぜ王朝古典文学を読んだのか

     明智光秀の「愛宕百韻」と『源氏物語』
     連歌師が『源氏物語』を講釈していた
     地方武将の『源氏物語』蒐集
     戦場から『源氏物語』を所望した武将もいた

     [コラム]安土・桃山時代はなかった!?

    八、漢詩・和歌と戦国武将

     武田信玄の漢詩
     上杉謙信の漢詩
     直江兼続の漢詩
     伊達政宗の漢詩
     代表的な歌集を習得する武将たち

     [コラム]「家譜」の限界

    九、徳川家康の愛読書と印刷出版事業

     駿河文庫の主な蔵書
     侍医板坂卜斎の観察
     蔵書を通じた家康と直江兼続の交流
     散佚する恐れのある書籍の蒐集と書写
     家康が手がけた出版事業

    おわりに

御覧の通り、難読の書名・人名が本書には頻出も、出版社の配慮か振り仮名あり(^^) が、本書49頁に
「詞花集[しいかしゅう]」(本書211頁では正しく読めてる)、本書74頁に「孫臏[そんひん]」
といったミスも散見され、柏書房の編集者も小和田哲男も「教養」は1点だなオホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ!

知らない話が多かったので、へぇ~!ほぉ~!と大変勉強になった本書m(__)m だが、明智光秀の発句
「時は今あめか下しる五月哉」で知られる「愛宕百韻」、津田勇「愛宕百韻に隠された光秀の暗号」
歴史群像1995年4月号に依拠して、続く行祐「水上まさる庭の夏山」は『平家物語』(延慶本)巻四の
「程ハ五月雨シゲクシテ、河ノ水カサマサリタリ」を、そして紹巴の「花落る池の流をせき留て」は
『源氏物語』の花散里を、それぞれ踏まえた句であるとし、本書176頁に次の件が( ̄◇ ̄;)

    ・・・この連歌会に集まった連衆が、もちろん明智光秀を含めて、『源氏物語』や
    『平家物語』を読んでいたからこそ、この「愛宕百韻」連歌が成り立っていた
    のである。/このことから、当時の武将たちが、連歌会や歌会に臨むにあたり、
    基礎教養として『源氏物語』や『伊勢物語』などの王朝古典文学も、ある程度
    マスターしておかなければならなかったことがわかる。/なお、この「愛宕百韻」
    について、津田氏は同論文で、連衆一致しての、打倒平氏・源氏台頭の寓意が
    込められていたとしている。実は、この解釈は、明智光秀が本能寺の変を起こす
    動機を考える上でかなり重要なのである。・・・

織田信長は当時は平氏を称してて、明智光秀は土岐氏の出で美濃源氏なわけだけど、『源氏物語』を
踏まえた和歌は結構あるが、そのどれもが「源氏台頭の寓意が込められていた」と解すのかな(^_^;)

伊達政宗の歌を引いて、「『新古今和歌集』の摂政太政大臣(藤原良経)の次の歌を意識して詠んだ
ものではないかと愚考(^_^;)」(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2019-05-30
と前に書いたけど、本書214頁に「政宗は『古今集』だけでなく、『新古今集』もよく読んでいた。」
という一文がヤッタネ!!(v゚ー゚)ハ(゚▽゚v)ィェーィ♪ みどりんの「先見性」は満点の5点を・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;

けど、小和田哲男は『新古今和歌集』を披いたこと無いでしょ、本書を書いた際にもC= (-。- ) フゥー

    ・・・/では、家康は『源平盛衰記』をどのように読んだのだろうか。家康が家臣たち
    に源義経の失敗について語ったというエピソードが『古老夜話』に載っていて、
    米原正義氏は「天下人家康の実学」(『別冊歴史読本 徳川家康──その重くて遠き道』)
    で次のように記している。

      あるとき、家康は「源義経は生れつきたる大将だが、歌学のなかったことは大きな
      失敗だった」と言った。皆々の者共は「義経が歌道を知らなかったということは
      聞いていません」と答えた。すると家康は、「義経は、雲はみなはらい果たる秋風を
       松に残して月を見るかな、という古歌の心を知らなかったから、身を滅ぼした。
      平家退治は早すぎたのだ、少しは残すべきであった」と語ったという(『古老夜話』)。
      なるほど源平合戦に颯爽として登場した源九郎義経は、一ノ谷、屋島、壇ノ浦と、
      あっという間に平家を滅ぼし、そしてまた身も衣川館に散った。家康の言うことには
      思いあたることがある。茶湯の開山村田珠光は、「月も雲間のなきはいやにて候」とか、
      「藁屋に名馬つなぎたるよし」と言ったという。雲一つない月はそれで見られるが、
      それより風情ある雲間の月は日本人的である。秋風残る松間の月もまた一脈通ずるもの
      があろうが、より注意すべきは、家康が古歌を軍事と関連させて考えていることで
      あろう。

    家康の場合、こうした本から、先人たちの成功例、失敗例を学んだのではないかと
    思われるが、それだけではなく、文章のところどころに散りばめられている中国の
    歴史に関する叙述も学びとっていたものと思われる。/・・・

本書の171頁~172頁の記述だが、この米原正義には『戦国武士と文芸の研究』という著書や「元就の
信仰と文芸」(河合正治編『毛利元就のすべて』新人物往来社)という論文等もあるらしくて本書で
引かれていたからチョー驚いた( ̄◇ ̄;) そのまま引いている小和田哲男にも呆れたC= (-。- ) フゥー

第一に、この「古歌」は、藤原良経の作で『新古今和歌集』の「五十首歌奉りし時」という詞書から
建仁元年(1201年)2月の『老若五十首歌合』で詠まれたものと判り、文治5年(1189年)に衣川館を
攻められて自害した源義経が「知らなかった」のは当然のことじゃんヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!

第二に、この「古歌」は、どの注釈書でもいいけど、例えば、峯村文人(校注・訳)『新編日本古典
文学全集43 新古今和歌集』(小学館,1995)が「雲はすっかり吹き払ってしまった秋風を、松に残る
秋風の音としてだけ聞きながら、月を見ることよ。」と訳して、「雲を吹き払い、松に音だけ残して
いる秋風の中での澄んだ月。視覚と聴覚とを自在に生かして感深い。」と的確に評しているように、
「雲一つない月」を描いたもので、「松間の月」なんかじゃねーよヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!

・20位(19点)の残り14人で、細川忠興の記述から小和田哲男の「教養」は1点オホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ!

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-08-04