「菓子の下に商品券2万円が入っていた」とは「菓子」が既に開封されてたということかしら(@_@;)
「商品券」入りの贈答用(贈賄用?)の「菓子」がどこかで製造・販売されてたりしてヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ
昨日から膝掛けとネック・ウォーマー(内側ボア)を使い始めたが、そろそろニット帽も出番か(^_^;)

【昨日買った本&読んだ本】

萩谷朴『日本古典評釈・全注釈叢書 紫式部日記全注釈 上巻』(角川書店,1971)
萩谷朴『日本古典評釈・全注釈叢書 紫式部日記全注釈 下巻』(角川書店,1973)

Amazon出品者「info3349 コメント(商品説明)を必ずお読みください 中村書店 中村靖」に19日注文
したのが21日に届いた(^^) 4257円(4000円+配送料・手数料257円)(^_^;) コンディション説明文は
「コレクター商品 - 可 - P6-2 上下の全2巻セット 箱つき 裸本です 状態は経年並み 月報つき 重版
発送は日本郵便のゆうメール。クロネコメール便、宅急便はゆうパック、ヤマト宅急便にて毎日出何
しています。お届け先は郵便局留め、ヤマト営業所留めにも対応しています。おそれいりますが、
在庫切れの際には速やかに返金処理させていただきます。」で、注文前に「箱つき 裸本」は〈本来は
箱つきだが、出品しているのは裸本です〉の意かと問い合わせをしたところ、「函は付いています、
但し本誌に表紙カバーは付いていません」との回答あり(^^) 昨日書いた通り、新聞紙にくるまれた
この厚~い単行本2冊がレターパックプラスに収まっていたことには吃驚したし、状態は「良い」でも
通用するかと(^^) なお、下巻の函に小さく鉛筆で「上下3200」と記されてた(^_^;) また原所有者が
作ったものかリポDの箱を切った紙片の上部に穴を開け紐も付けられた栞めいたモノが挟まってて、
そこに黒ペンで「周章[シュウショウ]=あわてふためく。あまねく遊ぶ。」と書かれていたのは、
挟まっていた頁が上巻の紫式部が朝の化粧前の顔を藤原道長に見られた場面だったので笑えた(^_^;)

萩谷朴『日本古典評釈・全注釈叢書 土佐日記全注釈』(角川書店,1967)を先日購入した時と同様に
悩ましいのは、角川書店の出版物の奥付の発行年の「版」の表記が他社の「刷」と必ずしも同じ意味
ではなく、中には改訂版と明記することなく「版」を重ねるごとに細か~い修正を秘かに施している
場合があること(´ヘ`;) 図書館の新しい「版」のには改訂・修正した旨の特記は見当たらないが、
「・・・[上巻刊行後]かつて自分が書いた雑誌論文の結果さえも確かに踏まえぬ粗漏な点のあった
ことに気付き、下巻に大きな正誤を添えねばならぬ結果となった。」と下巻の「おわりに」にあって、
下巻刊行時に上巻の正誤表を付したという意味なのか、下巻の記述の中で上巻記述の訂正を行なった
意味か判らず、とりあえず上巻は1971年刊行の第一版は避け、1973年刊行の下巻の第一版以降に刊行
された上巻の版を狙うことにして、説明文に「重版」とあったこのショップに賭けたところ、上巻は
昭和51(1976)年2月25日発行の第四版、下巻は昭和51(1976)年2月10日発行の第三版だった(^_^;)

紫式部は勿論、『源氏物語』『紫式部日記』にも特別な興味はないけど、本書は注釈部分だけでなく
各節の「解説」が読み応えあってメチャ面白く、手元に置いて随時読み耽りたくて購入した次第(^^)
どんなトピックか知りたい方は下巻の巻末の「索引」の中の「解説欄項目索引」を御覧あれ(^o^)丿

藤原道長から女郎花の枝を差し入れられて何か歌を詠めと要求された紫式部が、とっさに詠んだのが
「女郎花 さかりの色を みるからに 露の分きける 身こそしらるれ」という歌で、『新古今和歌集』
にも入っていて、〈女郎花は露が付いて美しいのに、露が差別して付かない我が身は・・・〉という
歌意(^_^;) 片桐洋一『歌枕 歌ことば辞典 増訂版』(笠間書院,1999)の「をみなへし【女郎花】」
の項が〈・・・平安時代に入ると、・・・「をみなへし」をその名ゆえに「女」に見立ててよんだ歌
がほとんどになる〉と説明するように、「女郎花」は女の比喩であることは和歌の常識で、この歌の
「女郎花」は中宮彰子に仕えてる女房たちを指し、「露」は藤原道長による寵愛の意、と解するのが
常識的な和歌の読み方なのに、『紫式部日記』の研究者たちが非常識な解釈をしていることが本書の
上巻の次の記述から判る∑( ̄ロ ̄|||)ニャンですと!?

    ・・・この一首の歌意については、『全釈(小室[由三])』『全釈(阿部[秋生])』
    『考証[池田亀鑑]』『体系[池田亀鑑&秋山虔]』『新釈[曾沢太吉&森重敏]』
    『文庫([池田亀鑑&]秋山[虔])』等、近来の諸注はことごとく、女郎花を
    全盛の道長にたとえ、盛りを過ぎた式部自身の醜さを卑下することによって、
    女郎花の美しさ、従って道長の栄えを讃嘆したものであると解釈する点において
    一致しているが、それにはいささか異論なきを得ない。この歌一首の主題は、
    盛りの女郎花に比較して、わが身の薄幸と衰貌を歎くところにあるのであって、
    わが身に比べての相手への讃嘆ではない。その場合、女郎花を道長にたとえたのである
    とするならば、それは怨嗟の歌となって、はなはだ妥当を欠くこととなる。その上、
    歌語としての女郎花は、あくまでも女性を譬喩するのに用いられるものであって、
    男性たる道長を女郎花に擬することは許されない。やはり、同じ女性としての女郎花と
    式部自身との比較が一首を構成しているものと考えねばならない。その場合、
    女郎花をうるおして色を映えさせるものが、天の恵みの露であるならば、
    紫式部が差別されて、うるおうことのない恵みの露とは、世の情け人の情けであり、
    要するに、時の一の人たる道長の好意ないしは愛情ということに落ち着かざるを得ない
    わけである。・・・そして、その裏に、道長の意を迎えようとする一種の閨怨にも
    ひとしい式部の心情が隠されていることは、否むことのできない事実であろう。・・・

「男性たる道長を女郎花に擬する」だなんて、そんな和歌の常識に反する解釈をしたら、紫式部には
〈古歌の知識〉が無いことになって、『紫式部日記』の後の章で和泉式部に対して〈古歌の知識〉が
無いとエラソーに批評した紫式部の立つ瀬がなくなることに気付けよヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
池田亀鑑、阿部秋生、秋山虔などの一流の研究者をも狂わす紫式部は魔性の女かもねヒィィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ

・藤原道長愛人説を否定しつつ『紫式部日記』の和泉式部評を等閑視するバカチン国文学者ヾ(`◇´)ノ

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2019-02-11

・『土佐日記』の1月8日「障ることありて」について萩谷朴は思いもよらぬことまで検討ヒィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2019-11-06