「クノール カップスープ つぶたっぷりコーンクリーム」に何粒コーンが入ってるのか「ホリイの調査」
よろしく数え上げて、その平均を他社のと比較した人とかいるんだろうな(@_@;) 朝から胃が痛くて、
今日はコーヒーの代わり(-ω-、) 通行人からも見えるようにとテラスの高い所にバーベナの鉢が(^_^;)

【読んだ本】

戸板康二『新々ちょっといい話』(文春文庫,1987)所蔵本

雪にはならなかったけど昨日は一日中雨で寝床に湯タンポ入れたぐらいの寒さも、一転して今日は15度
まで上がったにもかかわらず(ただ、再び強風)、何故か寒気がメチャして、全く本が読めず(´ヘ`;)

    福井で育った彫刻家の高田博厚は、昭和九年から二十六年間パリに住み、
    日本人のために尽力した。帰国する時に、手もとにあったすべての制作[した作品]を
    こわして来たが、東京西落合のアトリエで、その数点を作り直した。/こわした話を聞いて、
    「どうしてそんなことをしたのですか、もったいない」といわれた時、高田はしずかに
    答えたそうだ。/「大丈夫だ、また作れるよ。ぼくの指が、ちゃんとおぼえている」

やっぱり偉大な彫刻家(という表現が矮小化に思えてしまうぐらい偉大な人物)は違うねぇ( ̄◇ ̄;)
彫刻家としても素晴しい作品を残した高田博厚だが、林達夫&久野収『増補 思想のドラマトゥルギー』
(平凡社選書,1974初版→1984第二版)から林達夫の発言をそのまま引く(^^)

    ところが、その常駐地へ本当にでかけたのは、この前のヨーロッパ旅行が
    初めてだったんだから、驚く人も多かろう。僕は日本の過去の、中国に行かずに
    漢学をやったり、漢詩を作ったり、南画などをかいたりした人々の例を挙げて、
    日本を離れずに、どれだけ西洋が学べるか、実験台に自分をしているんだと、
    それを西洋へ行かざるの弁にしていたんだが……。だいたい想像通りであったが、
    一つ例外があったのは、ミケランジェロ。彼には完膚なきまでにいかれた。
    帰ってからミケランジェロの画集とか研究書ばかり見ていて、たちまち一ヵ月
    経ってしまいました。休養どころではない。システィナ聖堂はもちろんだが、
    それよりも三つの『ピエタ』を晩年のものから逆に見ていって、これには全く参った。
    素晴しいですね、ミラノのカステルロ・スフォルツェスコの『ロンダノのピエタ』。
    この間、高田博厚氏に会ったら、彼も去年何度目かにそれをわざわざ
    見に行ったんだそうですが、大変なものです。オーヴァーなことを言えば、
    世界中の彫刻が全部滅びてしまっても、あれ一つだけ残っておればよい、
    とさえ思うぐらいです。失礼な話ですが、彫刻家の前でその話をしたら、
    高田氏もどうやら同感のようでした。

なお、ロマン・ロラン(高田博厚訳)『ミケランジェロの生涯』(岩波文庫,1963)の巻末に収録された
〈ロマン・ロランと「ミケランジェロ」について〉という論稿で高田博厚は次のように記している(^^)

    私が最初にイタリアに行ったのは三十数年の昔だが、はじめてミケランジェロの作品を
    直接見、ことにシスティーナ礼拝堂の「天地創造」を仰ぎ見た時、感動のあまり、
    スイスにいるロランに手紙を書いて、「世界はここに窮[おわ]る」と言った。
    
以下は『新々ちょっといい話』から現時点で小生が選んだ〈真・ちょっといい話〉&名言なり(⌒~⌒)

    富崎春昇が、門弟富山清琴におびただしい数の曲を教えたが、いつもこういった。・・・

     ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2019-02-12

    鷗外は腎臓病が死因になったのだが、病気が進んでいるのに、検尿をいやがって・・・
 
     ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2019-03-23

    東海道線で、初代市川猿翁と偶然同乗した若いジャーナリストが、「どちらへ」と・・・

     ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2019-03-25

    昭和四十六年十二月十二日、七十九歳で病没した桂文楽は、近年の落語界の名人で、・・・

     ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2019-04-05

以下は『最後のちょっといい話 人物柱ごよみ』(文春文庫,1994)からの〈真・ちょっといい話〉(^^)

    水木洋子がNHKのテレビドラマ脚本賞を受けた時、好きな時計をえらべといわれ、・・・

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    ・・・新派の大矢市次郎は、大正三年から六年まで陸軍の輜重隊に入隊していた。/・・・

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    東千代之介は、長唄の演奏家の子なので、三味線は達者である。ある時、三味線を持って・・・

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    西條八十の「かなりや」が碑になって上野の不忍池のほとりにある。これは大正十二年・・・

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