テレ東の午後ロー再開が正月明けの合図ということで(ローカルだね)、空いてるかもとブックオフの
セール最終日に出撃よオホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*) いつもガラガラな街外れの店は空いてたけど、中心街の
店は激混みヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ 初日にセドリさん達が食い荒らしただろうから在庫放出を期待したが・・・

【読んだ本(?)】

松井覚進『永仁の壺 偽作の顛末』(講談社文庫,1995)所蔵本

このブログを懲りずにお読みの皆様は、知的好奇心が旺盛で、ユーモアを解し、忍耐力の持ち主(^_^;)
そんな皆様が読めば、忍耐力は要するも知的興奮を覚えること確実なのが本書(文庫版)v( ̄∇ ̄)ニヤッ
本書の(単行本の)「あとがき」の書き出しは、

    「永仁の壺」というテーマで朝日新聞の『空白への挑戦』シリーズに長期連載できないか、
    と考えはじめたのは一九八九年九月である。私は、「書ける」と確信を得るまで一ヵ月半ほど
    予備調査をした。「先輩として忠告するけど、この企画はやめておいた方がいいよ」と、
    朝日新聞社を定年退職し、工芸評論家という肩書で執筆している人がいった。
    「やめておいた方がいい」という理由は、はっきりしなかった。/・・・
    
気になるでしょ(⌒~⌒)ニヤニヤ んで、本書の原型となった上記の新聞連載に関しても本書巻頭に掲載の
松本清張「〈序〉『永仁の壺』に寄せて」の書き出しで次のように評されているからね(⌒~⌒)ニコニコ

    朝日新聞の平成二年一月四日付夕刊の「にゅうすらうんじ」面に「空白への挑戦」として
    『永仁の壺』が連載されはじめてからわたしは欠かさずに読んだ。「翌日の新聞が待たれる」
    という気持ちを久しぶりに味わった。この連載を休む週二回の「にゅうすらうんじ」面に、
    いらいらしたくらいだった。・・・

多くの人々を〈「翌日の新聞が待たれる」という気持ち〉にさせるような連載小説を書いてた松本清張
をも〈「翌日の新聞が待たれる」という気持ち〉にさせちゃうなんて凄いけど、なんか笑えるね(^_^;)

永仁の壺のこと知らなくて検索しようとした方、wikiの「永仁の壺事件」、本書単行本を「参考文献」
に挙げてるけど、読んでない輩が書いてるらしく、その記述は不勉強かつデタラメ(-"-) 例えば、

    また、加藤唐九郎は織部焼で人間国宝(国の重要無形文化財保持者)に認定されていたが、
    その認定も同年[=1961年]解除される。

贋作事件についての説明で、こーゆー捏造をしてるのには爆笑したが、市場での加藤唐九郎作品の値を
上げようとしてワザと書いたのかも(@_@;) この一文に[要出典]という印が付けられてるのも当然で、
wikiの「人間国宝」の項には、加藤唐九郎の名前は無い^_^; またwikiの「加藤唐九郎」の項を見ると、

    ・・・永仁の壺事件で行った捏造により、無形文化財の資格を失った。

とあり、その「略歴」の「1961年(昭和36年)」も「 国の無形文化財有資格者の認定取り消し。」と、
コレも調べずに書いてる(-"-) wikiの「無形文化財」の項にも「この[無形文化財の]選定制度は、
1954年(昭和29年)の文化財保護法改正で廃止され、改正法施行時までに選定された無形文化財は白紙
に戻された。」とあるのにね(-"-) そこで、本書から関連する記述を引いておこうかC= (-。- ) フゥー

    このころ加藤唐九郎は、織部焼の技術で「助成の措置を講ずべき無形文化財」に認定
    されていた。陶芸家でいえば、黄地紅彩上絵付の加藤土師萌、九谷の上絵付の徳田八十吉、
    志野焼の荒川豊蔵、天目の石黒宗麿、辰砂の宇野宗太郎、備前焼の金重陶陽、色鍋島の
    今泉今右衛門が同じように無形文化財であった。しかし、この「助成の措置を講ずべき
    無形文化財」として選定されていた無形文化財は、[加藤唐九郎編の]『陶器辞典』が
    [1954年に]発行されて一ヶ月後の五月、文化財保護法の改正によって白紙に戻されて
    しまった。唐九郎の無形文化財は、一九五二年からわずか三年間続いただけであった。
    一九五四年からは、新たに重要無形文化財(人間国宝)の認定制度に変わり、石黒、荒川、
    金重、今泉、加藤土師萌は、次々と人間国宝になったが、唐九郎は認定されなかった。

「永仁の乱」とも言われた「永仁の壺事件」とは、「永仁二」(=1294年)という「年銘のある最古の
古瀬戸」の壺(2本ある)を1959年3月に文部省が国の重要文化財に指定も、その前後から贋作説が主張
され、加藤唐九郎に作者の疑いがかけられ、贋作と判明すると、その重要文化財指定は解除され、その
指定を推進した文部技官の小山富士夫は1961年に文化財保護委員会を辞職といった感じ( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚

永仁の壺2号の重文指定があっけなく決まった場面について、本書は次のような逸話を挟んでる(@_@;)

    永仁の壺が審議会を通った直後、小山が「だめだなあ、と思った」とつぶやくのを
    東京国立博物館員の林屋晴三(同館次長となり一九九〇年三月退官)は聞いた。
    林屋が「それならどうして提出されたんですか」と問うと、「海外に出そうだったので」
    と小山は答えた。/「骨董屋から古美術品を買って帰り、家の敷居をまたいだとたん
    『しまった』と思うのと同じです」と林屋は解説した。

小生なんか、家の敷居どころか、古本を買ってブックオフを出た瞬間に、「しまった」だよ(ノ_-;)トホホ…

世間的には加藤唐九郎や小山富士夫みたいに有名人じゃないけど、贋作であることを早くから見抜いて
力説していた瀬戸市の某人物の活躍を本書はよく描けてるよ(〃'∇'〃) まさに「野に遺賢あり」(^^)

でも、ここでは事件後の小山富士夫について抜き書きしちゃお(⌒~⌒)ニンマリ ちょっと痛々しいよ(;_;)

    クエーカー教徒として洗礼を受け酒を飲まなかった小山は、一九三三年三十三歳のとき、
    文部省の重要美術品等調査委員会の嘱託となり、同僚の田沢坦の出版記念会で初めて
    酒を知った。そして、永仁の壺事件後には、見ているうちにサントリーの角瓶を
    一本あけることもあった。・・・

    永仁の壺事件後、小山は箱書きを乱発した。箱書きというのは、陶磁器を収める木箱に
    権威者がしたためる一種の鑑定書である。相当額の謝礼がともなうことが多い。事件前の
    小山は必ずしもそうではなく、箱書きに慎重だったフシが垣間見られる。・・・

    間違った箱書きをしては権威を落とす。名を惜しみ箱書きに慎重だった小山は永仁の壺
    事件以後はガラリと変わった。作品の箱書きを頼まれ、ねばられるとイヤといえず、
    実物をよく確かめないで書くようになった。・・・

    「箱書きは、いいかげんにやめたらどうか」と周囲の人たちは何回も小山に忠告している。
    鎌倉市浄明寺に住む美術工芸振興佐藤基金理事長の佐藤千春も、その一人だ。すると酔った
    小山は「どうせ私はバカですからねえ」といった。忠告は効き目がなかった。

小山富士夫は、永仁の壺事件後に再び作陶生活に入って、「・・・晩年は陶芸作家として名を成した。
永仁の壺事件は小山の人生を大きく変えたが、むしろその方が小山にとって幸いだった、とみる人も
いる。」と芸術新潮1991年11月号の〈「永仁の壺」事件はこうして起こった!〉は評してるけどね(..)
ちなみに、同誌同号は創刊503号記念大特集「贋作戦後美術史」として「永仁の壺」の写真も(⌒~⌒)

さて、この加藤唐九郎と小山富士夫を中心に展開された事件、本書の最終章の章題が素晴しい(〃'∇'〃)

              第九章 二人は「壺」と一字だけ書いた

本書は何回も読んでて、最初に読んだ時のポスト・イットの幅が広いので、今使ってる細い幅のに貼り
換えようと読み始めた(^^) ところが、貼る場所が増え始めたので読むの止めて貼り換えに徹っした^_^;

今日買った本は明日にでも書くことにする(-ω-、) 昨夜は足のシモヤケが痒くて眠れなかったぞ(+_+)

[追記190105]

細野不二彦『ギャラリーフェイク』で、永仁の壺事件に言及した「落人たちの宿」は小学館文庫版だと
第16巻(2007年)_φ( ̄^ ̄ )メモメモ 同4巻(2003年)所収の「ペルシャの秘宝」には「加藤甚九郎」なる
「重要無形文化財指定の陶工」が登場するけど、加藤唐九郎がそのモデルなのかどうかは不明(@_@;)