「大人買い(おとながい)とは、食玩(玩具付きの菓子)などの子供向けの商品を、大人が一度に大量
に買うことを表す俗語。転じて、子供向け商品に限らず、単に通常人が1回に買う平均を大幅に上回る
数量の物やサービスを購入することも言う。」とwiki(-ω-、) やっちまったよ、漫画17冊(ノ_-;)ハア…
楽天ブックスが3倍~5倍なんてタイムセールやるのがいけないんだぁヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! ミキタニガァ!!

【読んだ本】

紀田順一郎『にっぽん快人物烈伝』(旺文社文庫,1985)所蔵本

「芸能人」の8人目は「男まさりのプリマドンナ」として、三浦環(^^) 名前を聞いても、オペラ歌手、
「蝶々夫人」という言葉が思い浮かぶ程度だけど、紹介されてる各逸話を読むと、面白い人物(^_^;)

    音楽学校へ入学したとき、父親から通学用に赤い自転車を買いあたえられた。
    えび茶のはかまにリボンで髪を束ねた風俗は、当時〝えび茶式部〟といわれ、
    めずらしくもない姿だったが、そのいでたちで自転車に乗る者はほとんどなかった。
    環は自転車美人といわれてたちまち評判になった。通学の途中をわざわざ見物に
    来る者もいたし、付け文をする大学生まで現れた。

佐野裕二『自転車の文化史』(中公文庫,1988)の中の一篇「明治自転車風景」から引く( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚

    彼女が東京音楽学校に入学したのは明治三三年、一六歳のときで、東京芝の今入町に
    公証役場をひらく父柴田孟甫の家から、上野の音楽学校まで、自転車で通学をした。
    紫の大矢羽の着物、燃え立つような緋の袴をつけ、白リボンで風になびく髪をむすんだ
    環が、真新しい自転車で通学する姿は、たちまち話題を呼び、「自転車美人」という題で
    新聞ダネになった。/一九世紀最後の年、東京府内の自転車は三〇〇〇台もあり、
    自転車はもはやそれほど珍奇な乗物ではなかったが、毎朝夕、派手な姿の妙齢の娘の
    自転車通学は、さすがに満都の評判になったにちがいない。/明治三六年二月から、
    読売新聞に連載小説「魔風恋風」がはじまった。小説は、ヒロイン萩原初野が颯爽と
    自転車で登場するところから始まる。/・・・/時期的に見ても、「魔風恋風」の
    女主人公初野は描写は、三浦環の評判を聞いていたにちがいない作者[小杉天外]の
    イメージの中にあったろうという想像は、それほど無理ではないだろう。/・・・/
    [「魔風恋風」に出てくる]デートン色とは、アメリカの自転車デートン号の車体の
    塗色が海老茶色をしていたので、この色をデートン色と呼んだのだった。このころの
    女子学生は海老茶色の袴を着けるのが流行したので、女子学生を紫式部をもじって
    海老茶式部といったものだった。まだ、女子の洋装が一般化する以前のことである。

たしか小杉天外『魔風恋風』は持っていたはずと、書庫の岩波文庫の棚を探したら(無かったけど)、
斎藤茂吉(校訂)『金槐和歌集』(岩波文庫,1929)があるじゃん∑( ̄ロ ̄|||)なんですと!?去年
ブックオフに岩波文庫の美品が大量に入荷したから何冊も買っちゃって、「GW前に早くも臥薪嘗胆
作戦失敗だが『金槐和歌集』までは買わなかった自分を褒めてあげたい(T_T)」と「170423読んだ本&
買った本」に書いたけど、当時の自分を褒めてあげたい(;_;)ヾ(-_-;)オイオイ普段から本棚を見とけよ!
ということで、本棚を改めて見たら、このブログで延々と取り上げた吉屋信子『私の見た人』(朝日
文庫,1979)に「三浦環」の回があって、対談で「上野の音楽学校へ自転車で通いましたら自転車美人
とたいへんな評判でございました」と吉屋信子に自慢している件に付箋が貼られてたヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ

こんなに長くなると読まれないけど、本書に戻って、もう一個ぐらい逸話をメモっとくC= (-。- ) フゥー

    三浦素夫は環の甥という理由で一緒に暮らしていたといわれているが、実は
    彼女の最後の愛人であった。彼女が五十五歳のとき、素夫は当時二十一歳の学生で、
    親子ほどの差があった。しかし、環は世間のことなどおかまいなし、自分の感情だけで
    動く人で、この素夫の場合も、一方的な一目ぼれで、二度目には自らベッドに誘った。
    そして「三年間だけ、あたしのものになって」と素夫に懇願し、同棲を始めたのであった。

愛人じゃなくて妻が何人もいるヤンマガ連載中の漫画あるじゃん、キャラが好みなんだよね(´ヘ`;)