10倍やらないし6倍すら無かった(ノ_-;)ハア… ポイントでいくら還元されるかよりも、ポイントでいくら
安くなるかが買い物のコツなんだけど、手持ちのポイントもさほど多いわけでもないからねぇ(-ω-、)
本は買わなくても未読の蔵書が多いし、何よりも書庫の本棚から溢れてる不要本を捨てなきゃね(^_^;)
【読んだ本】
杉本苑子『西国巡拝記』(中公文庫,1980)所蔵本
「第三十二番 観音正寺」を読了(^^) 昨日の東京MXテレビの「西国三十三所 観音巡礼 祈りの旅」は
二十五番の御嶽山清水寺だった(^_^;)
ふりかえってみると、やはり難所は、四番の槇尾寺、十一番り上醍醐、二十五番の
御嶽山清水寺ということになりそうだが、三十二番の観音正寺がまた、最後の大難所
・・・・・・。/私の体験からいえば、三十三ヵ所中、もっとも苦しく、つらい登りおり
であった。/四番、十一番、二十五番は、山坂とはいっても、よく踏みかためられた
歩きよい土の道である。しかし観音正寺はちがう。表参道、裏参道とも、
胸つき十二、三丁の石段なのだ。
昨日テレビで視たんだけど、どうやら御嶽山清水寺も現在は車でショートカットできるみたい(^_^;)
この山は、初名を沙々貴[ささき]山といったが、中世以降、繖山[きぬがさやま]
ともよばれるようになり、観音正寺の山号となった。/全山、三十一番にも登場
させた近江の豪族、佐々木氏の城址で、・・・
周囲に古墳が多いことから、「沙々貴の古名も、あるいはミササギに関連したものかもしれない」と
苑子タンが推理するのはともかく、「第三十一番 長命寺」では「佐々木氏は宇多帝の後裔といわれ、
近江源氏を自称して湖東に勢力を張った氏族だが」と記してたけど、林屋辰三郎『佐々木道誉 南北朝
の内乱と〈ばさら〉の美』(平凡社ライブラリー,1995)には次のように説明されてるんだよね(^_^;)
近江にはこの[宇多源氏の佐々木氏の]ほかに孝元天皇皇子、四道将軍の一人
大彦命の子孫と伝える佐々貴公という旧族があった。蒲生郡を中心に沙々貴神社を
奉祀していた名族であるが、佐々木氏の勃興によって圧倒され、いつしか源氏を
称して佐々木氏のなかに吸収されたのである。こうして佐々木氏は平安時代には
佐々木荘下司職と沙々貴神社の神主職を併せ有していた。
なお、同書によると、観音正寺の「本堂は旧彦根城中けやき御殿の一部を移築したと伝える」由(^^)
本書には「七番札所の岡寺(竜蓋寺)に詣でたさい、石舞台古墳を見てその巨大に目をみはったが、
繖山の奥ノ院――岩倉の秘所も、たたみあげた巨石の大きさはおどろくばかりである。・・・つまり、
奥ノ院の岩屋は、繖山での、信仰上の根元地ともいえるわけだ。」とあり、こちらも見所かも(^_^;)
観音正寺は寺伝によると聖徳太子が建立したそうで、ちょっと面白~い伝説も紹介してた(〃'∇'〃)
三十三の厄年のとき、仏法弘通[ぐずう]を思い立って旅に出た聖徳太子が、
近江の国神崎の入江にさしかかると、芦の茂みから、あわれな声で呼ぶ者がある。
人魚であった。/「わたくしは前生、堅田の浦の漁師でしたが、殺生のむくいで
かような姿になり、毎日たくさんの魚どもに生血を吸われてくるしんでいます。
お助けください」/そこでみずから、観音の尊像をきざみ、一宇を繖山の山頂に
建てて、太子は人魚成仏の祈誓をされたというのが、当山の縁起であり、その人魚が、
いまもミイラ化して残っているというのだから、これは珍中の珍、ぜひとも
拝見したいものだと私は張りきった。
苑子タン、人魚のミイラに、興味津津ですぅ~ウキウキ♪o(^-^ o )(o ^-^)oワクワク♪
岡村昭応御住職が語る「いきさつ」も笑える(^_^;)
「まあ、いってみれば伝説の寺宝、幻の魚とでも申せましょうか。幕末か明治のはじめ
酒好きな住持が当山におりましたな。酒代のかたに、人魚を居酒屋に持ち出したのです。
爾来四十年・・・・・・、その家にしまわれていたわけですが、先住が奔走し、信徒総代も
尽力して、やっと寺に返してもらいました」
「本堂、須弥壇のうしろ側に、かんたんなガラスばりの陳列ケース」、その中に横たわる人魚のミイラ
を実見した苑子タン・・・
三十二ヵ所まで廻っての所感、てゆーか、寺側および巡礼する側、それぞれに対する注文が、最後に
記されているが、小生的には、観音正寺の「ちかくに、歌枕でなだかい老蘇[おいそ]の森をひかえ、
奥石[おいそ]神社」もあるという情報の方が、今は気になる(¬。¬ )
2度目に取りに行く時には降り出しちゃってた(^_^;)
安くなるかが買い物のコツなんだけど、手持ちのポイントもさほど多いわけでもないからねぇ(-ω-、)
本は買わなくても未読の蔵書が多いし、何よりも書庫の本棚から溢れてる不要本を捨てなきゃね(^_^;)
【読んだ本】
杉本苑子『西国巡拝記』(中公文庫,1980)所蔵本
「第三十二番 観音正寺」を読了(^^) 昨日の東京MXテレビの「西国三十三所 観音巡礼 祈りの旅」は
二十五番の御嶽山清水寺だった(^_^;)
ふりかえってみると、やはり難所は、四番の槇尾寺、十一番り上醍醐、二十五番の
御嶽山清水寺ということになりそうだが、三十二番の観音正寺がまた、最後の大難所
・・・・・・。/私の体験からいえば、三十三ヵ所中、もっとも苦しく、つらい登りおり
であった。/四番、十一番、二十五番は、山坂とはいっても、よく踏みかためられた
歩きよい土の道である。しかし観音正寺はちがう。表参道、裏参道とも、
胸つき十二、三丁の石段なのだ。
昨日テレビで視たんだけど、どうやら御嶽山清水寺も現在は車でショートカットできるみたい(^_^;)
この山は、初名を沙々貴[ささき]山といったが、中世以降、繖山[きぬがさやま]
ともよばれるようになり、観音正寺の山号となった。/全山、三十一番にも登場
させた近江の豪族、佐々木氏の城址で、・・・
周囲に古墳が多いことから、「沙々貴の古名も、あるいはミササギに関連したものかもしれない」と
苑子タンが推理するのはともかく、「第三十一番 長命寺」では「佐々木氏は宇多帝の後裔といわれ、
近江源氏を自称して湖東に勢力を張った氏族だが」と記してたけど、林屋辰三郎『佐々木道誉 南北朝
の内乱と〈ばさら〉の美』(平凡社ライブラリー,1995)には次のように説明されてるんだよね(^_^;)
近江にはこの[宇多源氏の佐々木氏の]ほかに孝元天皇皇子、四道将軍の一人
大彦命の子孫と伝える佐々貴公という旧族があった。蒲生郡を中心に沙々貴神社を
奉祀していた名族であるが、佐々木氏の勃興によって圧倒され、いつしか源氏を
称して佐々木氏のなかに吸収されたのである。こうして佐々木氏は平安時代には
佐々木荘下司職と沙々貴神社の神主職を併せ有していた。
なお、同書によると、観音正寺の「本堂は旧彦根城中けやき御殿の一部を移築したと伝える」由(^^)
本書には「七番札所の岡寺(竜蓋寺)に詣でたさい、石舞台古墳を見てその巨大に目をみはったが、
繖山の奥ノ院――岩倉の秘所も、たたみあげた巨石の大きさはおどろくばかりである。・・・つまり、
奥ノ院の岩屋は、繖山での、信仰上の根元地ともいえるわけだ。」とあり、こちらも見所かも(^_^;)
観音正寺は寺伝によると聖徳太子が建立したそうで、ちょっと面白~い伝説も紹介してた(〃'∇'〃)
三十三の厄年のとき、仏法弘通[ぐずう]を思い立って旅に出た聖徳太子が、
近江の国神崎の入江にさしかかると、芦の茂みから、あわれな声で呼ぶ者がある。
人魚であった。/「わたくしは前生、堅田の浦の漁師でしたが、殺生のむくいで
かような姿になり、毎日たくさんの魚どもに生血を吸われてくるしんでいます。
お助けください」/そこでみずから、観音の尊像をきざみ、一宇を繖山の山頂に
建てて、太子は人魚成仏の祈誓をされたというのが、当山の縁起であり、その人魚が、
いまもミイラ化して残っているというのだから、これは珍中の珍、ぜひとも
拝見したいものだと私は張りきった。
苑子タン、人魚のミイラに、興味津津ですぅ~ウキウキ♪o(^-^ o )(o ^-^)oワクワク♪
岡村昭応御住職が語る「いきさつ」も笑える(^_^;)
「まあ、いってみれば伝説の寺宝、幻の魚とでも申せましょうか。幕末か明治のはじめ
酒好きな住持が当山におりましたな。酒代のかたに、人魚を居酒屋に持ち出したのです。
爾来四十年・・・・・・、その家にしまわれていたわけですが、先住が奔走し、信徒総代も
尽力して、やっと寺に返してもらいました」
「本堂、須弥壇のうしろ側に、かんたんなガラスばりの陳列ケース」、その中に横たわる人魚のミイラ
を実見した苑子タン・・・
三十二ヵ所まで廻っての所感、てゆーか、寺側および巡礼する側、それぞれに対する注文が、最後に
記されているが、小生的には、観音正寺の「ちかくに、歌枕でなだかい老蘇[おいそ]の森をひかえ、
奥石[おいそ]神社」もあるという情報の方が、今は気になる(¬。¬ )
2度目に取りに行く時には降り出しちゃってた(^_^;)