楽天お買い物マラソンのスロットで当たったのは、またも車(ノ`m´)ノ ~┻━┻ (/o\) ミドリンヤメテー!!
注文してないのに実在する楽天のショップから「注文内容ご確認」のメールが4通ほど来たよ(´・_・`)
雨が降ってたから久しぶりに庭でナメクジ見たけど、ナメクジを愛でられる人とかいるのかな(-ω-、)

【読んだ本】

竹内理三『日本の歴史 6 武士の登場』(中公文庫,1973)所蔵本

平安時代末期の院政では、摂関政治でうだつが上がらなかった中・下層の貴族が、上皇や法皇の側近
として権勢を振るったが、そんな「院の近臣のはしり」とされるのが六条修理大夫顕季と本書に(^^)
この藤原顕季は母が白河上皇の乳母だった関係で白河上皇から重用されたと解説した後、本書曰く、

    顕季は和歌もたくみで一家をなし、次子顕輔・孫清輔が歌の道を継承し、
    六条家と称して院政期の歌壇に重きをなした。源俊頼が白河法皇の院宣を
    奉じて『金葉和歌集』を撰進したとき、顕季の歌を巻頭においたのも、
    顕季の威をはばかってのことといわれている。

勅撰集の巻頭歌は歌人にとって名誉なわけだけどさ、「といわれている」とある以上、当時か現代の
文献に〈俊頼は顕季の威をはばかって、その歌を金葉集の巻頭においた〉とあったのを、正当である、
あるいは紹介するに値すると竹内理三は評価して記したんだろうが、素人目には腑に落ちないね(@_@)

前にも書いたけど、金葉和歌集という勅撰集は、源俊頼の独撰だけど、白河法皇から2度もダメ出し、
3度目にやっとOKが出たという経緯があり、「初度本」「二度本」「三奏本」の3種類がある(^_^;)

となるとだよ、この3種類のそれぞれの巻頭歌は以下の3パターンのどれかになるはずでしょ(@_@;)

 A 初度本(顕季の歌)→ 却下 → 二度本(顕季の歌)→ 却下 → 三奏本(顕季の歌)→ OK
 
 B 初度本(顕季以外)→ 却下 → 二度本(顕季の歌)→ 却下 → 三奏本(顕季の歌)→ OK

 C 初度本(顕季以外)→ 却下 → 二度本(顕季以外)→ 却下 → 三奏本(顕季の歌)→ OK

んで、実際の成立過程での巻頭歌はどうだったかと言うと、

 D 初度本(顕季以外)→ 却下 → 二度本(顕季の歌)→ 却下 → 三奏本(顕季以外)→ OK

Dを見て〈俊頼は顕季の威をはばかって、その歌を金葉集の巻頭においた〉に素直に頷けるかね(@_@)

川村晃生&柏木由夫&工藤重矩(校注)『新日本古典文学大系9 金葉和歌集 詞花和歌集』(岩波書
店,1989)巻末の「解説」によれば、「初度本」は完本が現存しないけれど、その巻頭歌は三宮輔仁
親王の歌とするものや紀貫之の歌とするものなど複数の「初度本」が流布している由、顕季の歌を
巻頭歌とした「二度本」は編纂時から世に流布したため、現存する金葉集の諸伝本はほとんど同系統
に属する由、源重之の歌を巻頭歌とした「三奏本」は白河法皇が清書途中の下書の本を納められた故、
その系統本は撰者の手許にも残されず、その成立直後からほとんど世に流布しなかった由(@_@;)

さて、〈俊頼は顕季の威をはばかって、その歌を金葉集の巻頭においた〉旨の本書記述への疑問点は、
第一に、「初度本」では顕季の歌を巻頭においてないことから、顕季の威をはばかったとは思えない、
第二に、もし「初度本」を却下されたため、顕季の威をはばかって「二度本」では顕季の歌を巻頭歌
としたのなら、「三奏本」で再び巻頭歌から外すのはおかしくないだろうか、という二点である(^^)

以上、成立過程を見る限り、「顕季の歌を巻頭においたのも、顕季の威をはばかってのこと」という
本書が紹介している見解には合理的な疑いがある、と小生は愚考するのだけど、如何かしらね(^^)

もしかしたら、この顕季の歌は勅撰集の巻頭歌には相応しくない出来である、と竹内理三は評価して、
「顕季の歌を巻頭においたのも、顕季の威をはばかってのこと」という見解を紹介したのかも(@_@)

そんな弁護論には、この歌に対する正宗敦夫『金葉和歌集講義』(自治日報社,1968)の次の評^_^;

    今日の眼で見ると、さほど佳作とも思はれないが、時代々々の好みが有る事で、
    何とも云へない事である。

最後に「顕季の歌を巻頭においたのも、顕季の威をはばかってのこと」という見解への切り札として、
井上宗雄『平安後期歌人伝の研究 増補版』(笠間書院,1988)が顕季を論じた一節中の一文を引くと、

    再奏本金葉集では、その歿後であるのに、その歌が巻頭に据えられたのは、
    彼の社会的地位に基づいた歌壇的地位の高さを如実に示していよう。

顕季は「院の近臣」という「社会的地位」も与って「歌壇的地位」を高めたと井上宗雄も論じるが、
注目してほしいのは、顕季の歌を巻頭歌に据えた金葉集の再奏本=二度本の撰集作業が完了した時
(岩波・前掲書によると天治2年=1125年4月頃)、顕季は既に故人であり(岩波・前掲書によると
保安4年=1123年没)、故人の「威をはばかって」だなんて、笑えるよねぇオホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)
岩波・前掲書も「もっとも顕季は、[勅撰集撰集の]院宣の下る前年にすでに他界している。」由、
竹内理三も歴史家なら没年など基本的な事実関係ぐらい調べて書けよヾ(`◇´)ノ彡☆コノ!バカチンガァ!!  

予報は午後から暑くなるということだったが、昨日ほど寒くないだけ(+_+)