それにしてもズル休みは出来ないもんだねぇ(-ω-、) 実は、ズル休みするために昨日は密かに伏線を
張ってたのさC= (-。- ) フゥー 冒頭の枕の話の末尾に「毎日更新してるの明明白白だしぃーv( ̄∇ ̄)」
と強調し、返信コメントで「・・・試しに押してみます(^^) もし拙ブログの更新が止まったら、何か
あったとお考え下さ~い(^o^)丿」と布石をし、「言われるまま押してみたけど、何か起こるのかしら
(@_@;)」という返信コメで細工は流々ψ(*`ー´)ψヶヶヶ... ブログ更新を数日ズル休みした後、
ひょっこりと更新し、「あの夜、ポチッと押した直後に拙宅の玄関チャイムが鳴ったから開けたらさ、
ブログランキングの者ですが・・・と名乗る人が立ってて、そのまま拉致されちゃったヒィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ
改造されそうになったとこ、やっと逃げ出して来たんだ(ノ_-;)フウ…」というシナリオ(〃'∇'〃)テヘペロ
それにしても、皆さん、よく毎日更新できるねぇ(^_^;) 我以外皆我師と思ってマジ尊敬してるm(__)m

【読んだ本】

森田悌(全現代語訳)『日本後紀(中)』(講談社学術文庫,2006)

鳴くよ、ウグイス、平安京の桓武天皇の後を継いだのは皇太子の安殿(あて)親王=平城天皇だが、
病いのために皇位を譲ろうとするも、皇太弟の神野(かみの)親王(後の嵯峨天皇)は辞退して、
再度の上表を行なった(@_@;)

   神野親王の上表を許さなかった。ついに天皇は位を皇太弟に渡した。平城太上天皇は
   居処をかえて治病に当たり、五度移遷したのち、平城京に宮殿を造った。しかし、
   平城太上天皇の行動は譲位の実に背き、政令をしきりに出し、[嵯峨天皇の朝政に]
   容喙した。尚侍[ないしのかみ]従三位藤原朝臣薬子(薬子の極位は正三位)が常に
   [平城太上]天皇の帳[とばり]の内に侍し、何かにつけ詐[いつ]わり託[かこ]
   つけることを行った。太上天皇は薬子を非常に寵愛し、その悪事に気づかなかった。
   薬子は平城京への遷都を図ったが、これは太上天皇の本心ではなかった。

本書を拾い読みして、この大同4年夏4月戊寅(3日)の条の「・・・譲位後の平城太上天皇についての
『日本後紀』編者による論讃」が、チト気になった(゚o゚;) それは最後の一文で、「平城京への遷都
・・・は[平城]太上天皇の本心ではなかった」という点(@_@;)

平城天皇の御歌が古今和歌集に入っているよ(歌番号90)(^^)

       ふる里と なりにし奈良の 都にも 色はかはらず 花は咲きけり

古今集という勅選集入集歌であるだけでなく、藤原俊成の歌論書『古来風躰抄』下巻(橋本不美男&
有吉保&藤平春男[校注・訳]『新編日本古典文学全集87 歌論集』[小学館,2002]に所収)とか、
藤原定家の秀歌撰『八代抄』(樋口芳麻呂&後藤重郎[校注]『定家八代抄~続王朝秀歌選(上)』
[岩波文庫,1996])にも入っている秀歌(^^)v 解り易く言うと、この『八代抄』に入っているという
ことは百人一首にも選ばれていた可能性もあったわけさ(^^) みどりんですら、その歌意は解るけど、
奥村恆哉校注『新潮日本古典集成 古今和歌集』(新潮社,1978)の頭注の口語訳を引いておくよ(^^)

   今はさびれて片田舎となった奈良の都にも、花だけは昔と同じ色に、美しく咲いている。

人為的栄華の儚さと自然美の永遠性との対照は、パターン化して詠われている主題ではあるんだけど、
平城上皇が旧都・平城京を復活させようとした上述の「薬子の変」のことを考えると、ヨリ感慨深く
感じられるわけ(〃'∇'〃) ところが、ソレは「本心ではなかった」と言われちゃうとね(ノ_-;)ハア…
ま、全ての責めを藤原薬子に負わせようと、日本後紀の編者が考えただけかもしれないけど(´・_・`)

なお、坂本太郎『史書を読む』(中公文庫,1987→3版1992)の中の一篇「続日本紀」に、

   桓武天皇は一旦は廃太子[&藤原種継]関係の記事を削除させたが、次の平城天皇のとき
   種継の子の仲成と薬子が権力を握ると、父の事蹟が埋没されたのを不満として、削除した
   部分を復活させた。しかし、その次の嵯峨天皇になって、仲成・薬子が失脚すると、
   嵯峨天皇は桓武天皇の遺志を重んじて、また削除してしまった。

とあることは「171019読んだ本」で論じたよ(^^) 本書の弘仁元年9月丁未(10日)の条に載っている
嵯峨天皇の詔りの中に上記のことが出ていた(^^)

   ・・・また、使人を柏原陵(桓武天皇)へ派遣して次のように報告した(宣命体)。/
   天皇のお言葉を、言葉に出して言うことも憚かられる桓武天皇に申し上げよ、とて
   申し上げます。・・・また薬子と[その兄の]仲成は、『続日本紀』に載せた祟道天皇
   (早良[さわら]親王)と贈太政大臣藤原朝臣(種継)とが不仲であった記事(藤原種継
   暗殺事件と早良親王の廃太子)を桓武天皇がすべて破棄しましたが、人の証言を得て
   破棄した記事を元のとおりに書き記しました。これも礼儀に反する行為です。今回再び
   以前のとおりに改正しましたことを、参議正四位下藤原朝臣緒嗣を遣わして、謹んで
   申し上げよとて、申し上げます。

今日は一転して寒くてヒートテック重ね着でなんとか(ノ_-;)フウ… メチャ寝不足、予定全滅(+_+)