明日の予報は雪じゃなくなったけど、東京でも2月26日に大雪だったことあるから油断できん(´・_・`)
12月14日に大雪になったこともあるけど、アレは旧暦で現在の暦なら1月30日になるらしいね(^_^;)
ともに何のことか分からぬ人はコメント欄を(*'ε`*)チゥ 誰かが何が起きた日か書き込むはず(⌒~⌒)
歴史だけでも真面目にしておけば今頃ちょっとした文化人だと森高千里も歌ってたよ(〃'∇'〃)テヘペロ

【読んだ本】

高浜虚子『俳句はかく解しかく味う』(岩波文庫,1989)所蔵本

芭蕉の句に気になるのがあり、本書に出てないかと読んでたら、ゲロゲロの巻(゚ロ゚;)ヾ( ̄o ̄;)また?

だってさ、蕪村の句「行春や選者を怨む歌の主」のところに次の記述があったんだよヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ

   昔平家の武士の忠度は俊成卿の『千載集』の中に自分の歌を読人知らずとして
   載せられたのを残念に思って、戦に赴く前に俊成の門を叩いて、その怨を陳べた
   というようなこともある。

そもそも千載和歌集は1188年に完成し、平忠度は1184年の一ノ谷の合戦で既に亡くなってるわけで、
この平家物語の「忠度都落」のシーンについては、杉本圭三郎(全訳注)『平家物語(七)』(講談社
学術文庫,1985)をテクストに、このブログでも何度も取り上げてきたから、今回は、久保田淳(校注)
『千載和歌集』(岩波文庫,1986)の表紙カヴァーに記されている内容紹介文を引くことに(ノ_-;)ハア…

   平家都落ちの際、平忠度が藤原俊成に、新しい勅選集に一首なりと選ばれれば
   生涯の面目と、歌集一巻を託して西へ去ったという話はよく知られている。
   忠度の歌は読人しらずの一首として本歌集に採られた。

この「よく知られている」話を、高浜虚子ともあろう者が・・・と呆れるけど、想念が2つ(@_@;)
王朝びとの間で和歌が果した機能に対する認識の甘さを感じさせる記述も本書にはあったんだけど、
もしかして虚子は和歌に精しくないのかも(-ω-、) 正岡子規は万葉集を称揚する一方で、古今集
(以下の各勅撰集)を腐したわけだけど、そもそも正岡子規は古今集などを批判できるほど和歌に
精しかったのかしら(´・_・`) 子規や虚子のこと、よく知らないから、批判はできないけどさ(^_^;)
また、高浜虚子ですら、平家物語や千載和歌集に関する知識が斯くも不正確となると、同時代の一般
大衆には古典に対する素養なんて、ほとんど無かったんじゃないかな(@_@) 昨年あるSo-netブログが
月岡芳年の「妖怪百物語」&「月百姿」の特別展について書いてて、芳年の各作品に〈描かれている
妖怪や人物が芳年オリジナルではなく「伊勢物語」や「源氏物語」などからの引用なのだと気が付き
ました。それって明治時代の庶民は古典のエピソードを常識として普通に知っていたってことです。〉
とブログ主は断定してた( ̄□ ̄;)むしろ逆で、芳年の上記浮世絵作品は庶民の教育・啓蒙という
社会的機能も担っていて、庶民を古典へと誘ってくれたんじゃないかしら(@_@) 少なくとも虚子の
上記記述を見る限り、「明治時代の庶民は古典のエピソードを常識として普通に知っていた」なんて、
思えないよね(^_^;) 以上は単なる想念だし、また本書は拾い読みする限りでは色々と教わるところが
多いので、いずれ通読するつもりの本(^^) やっと雑用が一つ片付き、明日から本格的読書再開か^_^;

鉄じゃなくても廃線備品は文化遺産・文化財と思わん?「さわらないように」と記された展示物だよ(-"-)