今月末期限のブックオフ1割引券が3枚残ってるが、目星を付けた本は正月の2割引セールでスルーした
ものゆえ、損する気がしてならない(-ω-、)しかし、使わないのも、これまた損するような気が(´・_・`)
小ブログでも言及した某書が美品で全三冊あったけど、高い気するし、索引が無いのがなぁ(ノ_-;)ハア…

【読んだ本】

杉本苑子『西国巡拝記』(中公文庫,1980)所蔵本

MXテレビで土曜夜に放映中の「西国三十三所 観音巡礼 祈りの旅」を、ながら視聴していて、先週が
岩間寺だったと記憶(´・_・`) 故に「第十番 三室戸寺」「第十一番 上醍醐」「第十二番 岩間寺」を
読んだ^_^; 京阪線の宇治駅から三室戸寺に向う苑子タンは「道草」^_^; 平等院ではなく、「橋寺」
(放生院常光寺)に(^^) 境内の金国文で有名な「断碑」(宇治橋断碑)は「・・・陸前の多賀城碑、
上野の多胡碑とならんで三大古碑の随一といわれている。」由(^^) 上醍醐は西国いちばんの難所と
脅かされてた苑子タンだが、「・・・けっして辛いものではなかった。」とか(^_^;) 湧いてる泉が
醍醐味だったから付けられた山名らしく、山上が上醍醐、麓に発達した堂塔僧坊が下醍醐と呼ばれ、
「つまり『醍醐寺』とは、山上山下をひっくるめての総称であり、信仰の場は、草創の当初から上醍醐
――。下醍醐は衆僧の養成、あるいは一山の寺務をあつかう場所として、いまなお大きく、その性格は
特徴づけられているのである。」(^^) また「かつて、下醍醐の繁栄をささえていたおもな寺院は、
三宝院、理性院、金剛王院、無量寿院、報恩院の五門跡だったが、・・・怪僧賢俊・・・僧正文観
・・・准三宮満済・・・座主義演など、宗教人というよりは政治家にちかい僧たちが、そろって三宝院
から輩出したため、一山の支配権は、しぜん同院の独占するところになり、ひきつづき現代に至って
いるのである。」_φ( ̄^ ̄ )メモメモ 苑子タンは御不満のようだけど、斎藤執事の話は良かったな(^_^;)
最後の岩間寺(岩間山正法寺)では、

   雷よけの伝説も無邪気だ。泰澄大徳の加持によって、難病を助けられた元正女帝が、
   岩間山頂に伽藍の寄進をしたさい、落成ちかくなるたびに雷が落ちて、せっかくの
   堂舎を焼いてしまう。法力の未熟を嘆いた大徳、/「こんど落ちたらこらしめてやろう」
   /と手ぐすねひいているところへ、ピカリガランときた。すかさずつかまえて、/
   「なぜ、この御寺に障礙をするのか」/と詰問すると、雷いわく、/「仏門に入れて
   いただきたいために訪問するのですが、私の性として火を伴うので、ごめいわくを
   おかけしました。そのかわり今後、この寺へ参る人には雷火のたたりをしません。
   本尊さまへのお水も私がまかないます」/と岩を爪でひっかいて泉を出したので、
   大徳は彼を得度させ、仏弟子の一人に加えてやった。

こーゆー話、好き(^^) この泰澄は、宮元啓一『日本奇僧伝』(東京書籍,1985)の「仙人群像」で項も
立てられているのに、この話は出てなかった(+_+) なお、寺伝によれば、松尾芭蕉もしばしば岩間寺を
訪れていて、「本堂のわきには石にかこまれた小さなみどろ池があり、・・・」、古池や・・・の句も
ここで詠まれたとか(@_@) 「古池を仏地法域と見、そこへとびこむ蛙を翁自身とみるのが、もっとも
しぜんな観賞の仕方と思うのです」という説明に、苑子タン曰く、

   ・・・なるほどお寺さまらしいが、古池の諷詠地は全国あちこちにあり、たがいに
   本家を主張してゆずらないため、未定とされているのが現状である。味わう人の心々で、
   池の広さも、深さ浅さも、融通自在に変化しうるところが、この句のうまみとあってみれば、
   つまるところ詠まれた場所など、どこでもよいということになる。/観世音の慈悲の無辺さ、
   その存在のおおらかさに、一脈、通じるものがあるではないか。

御近所では水道が凍ってたし、最高気温は2度だったかも((;゚Д゚)ヒィィィ! 寒くて今日もサボる(-ω-、)