歴史のプロセスにおけるポイント・オブ・ノーリターン(不可逆点)というものを考えると、例えば、
戦国時代の武田氏の滅亡では、長篠の戦いにおける敗戦より、むしろ高天神城の落城ではないかと
(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-01-14 )(@_@;) 平氏の滅亡では
石橋山の戦いで挙兵した源頼朝を討ち漏らした時点になるのかな(@_@;) その後の平清盛の死去も
モチ大きいけど、高倉上皇の21歳での崩御も歴史のプロセスを加速させ、軽視できないかと(@_@;)

【読んだ本】

森本元子『私家集全釈叢書13 殷富門院大輔集全釈』(風間書房,1993)所蔵本

      正月十四日、高倉の院うせさせ給ひて、あはれなる事など
      申しかはしたりし人のかへり事に

    この春は谷のうぐひすいでずとも我がはつねをやたれもなくらん

      かへし              但馬守経正

    ひきかへて人のなくねをこの春はあはれとやきく谷のうぐひす

       正月十四日、高倉院がお崩[かく]れになって、悲しみにたえない由など
       申してよこされた人への返事として(詠んだ歌)

     今年の春はうぐいすが谷から出てきてなかなくても、誰もが皆自分の初音として
     泣くことでしょう。

       返歌               但馬守経正

     例年とは逆に今年の春はわれわれ人間のなく声を、谷のうぐいすはあはれなことよ
     と聞くのでしょうか。

素人の感想だけど、殷富門院大輔のもモチ良いが、平経正は「・・・作歌にすぐれ、父経盛とともに
平家歌壇の中心として活躍。[藤原]俊成に師事した。・・・」(本書)とある通り、巧いな(^_^;)
高倉天皇は治承4年(1180年)2月21日に東宮言仁親王(安徳天皇)に譲位すると、平経正は井上宗雄
『平安後期歌人伝の研究 増補版』(笠間書院,1988)の「第五章 平家の歌人たち」の「二 経盛・
経正」によれば、「・・・/[治承]四年二月廿四日新院高倉の別当になった(山槐記)。」とある
ので、高倉上皇と近かったのかな(@_@;) 高倉院の崩御が治承5年(1181年)の1月14日ということ
から、時節柄、鶯(の初音)が詠まれ、福田秀一&岩佐美代子&川添昭二&大曾根章介&久保田淳&
鶴崎裕雄(校注)『新日本古典文学大系51 中世日記紀行集』(岩波書店,1990)に収録されている
大曾根章介&久保田淳(校注)『高倉院升遐記』という源通親(新院別当)による「・・・高倉院を
偲ぶ追悼の記。」(同書)にも鶯を詠んだ哀傷歌が含まれていて、脚注の歌意を補って引く(´・_・`)

    ・・・/谷の底に鶯の声聞きて、

      鶯のさへづる声はそれながらかはれる春ぞ悲しかりける

       [鶯のさえずる声は例年のままながら、例年と異なった諒闇の春は悲しい。]

    ・・・

日本野鳥の会が客席審査をカウントした結果、源平歌合戦は平家勝利・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;村上源氏!

・盗作将軍源実朝は辞世とされる歌も在原業平、藤原清正、式子内親王、菅原道真のコラージュ(゚ロ゚;)

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