考えてみれば、判断根拠が全く示されていないんだから、当否を論じようがないじゃん(ノ゚ο゚)ノ
18時から最後まで中継を視るも贔屓チームが負けてしまえば単なる電気代の無駄遣い(ノ_-;)ハア…

【読んだ本】

倉本一宏『藤原道長の日常生活』(講談社現代新書,2013)

倉本一宏は、藤原道長の漢詩文について「・・・道長自身はあまり作詩は得意ではなかったようで、
現在残されている道長製の漢詩・・・も、それほど優れたものとは思えないのであるが、・・・」
(本書79頁)と評した上で(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2023-02-12 )、
本書の「第二章 道長の宮廷生活」の「2 儀式について」に「道長の和歌の素養と機知」と見出し
が付けられた節の冒頭(本書80~81頁)で次のように述べているエッ(゚Д゚≡゚Д゚)マジ?

    /これ[=漢詩文]に対し、[藤原道長の]和歌の方はどうだったのであろうか。
    道長の勅撰集への入集は、『拾遺集』二首をはじめとして四十三首であるが、
    これらは歌人としての道長が評価されたというよりも、摂関家の祖として入集
    したものであろう(藤原定家の祖先でもある)。/・・・

藤原道長は「摂関家の祖」だから勅撰集に「四十三首」入集しただとΣ( ̄ロ ̄|||)ニャンですと!?
まさか倉本一宏は道長の勅撰集入集歌43首の全てが本来なら入集に値しない出来であると( ̄◇ ̄;)

八代集の注釈書しかなく、『拾遺和歌集』の2首、『後拾遺和歌集』の5首、『詞花和歌集』の1首、
『千載和歌集』の3首、『新古今和歌集』の5首の計16首しか分からないけど(重出歌あり)、どれも
「摂関家の祖」だから入れてもらえたような出来栄えとは、小生にはちょっと思えないのだが(^_^;)
ただ、残りの27首が倉本一宏の言う通りなのかもしれないから、その当否は分からないけどね(^_^;)

本来なら道長の入集歌を一首ずつ取り上げて論じるのが筋だけど、今日はそれどころに非ず(-ω-、)

『拾遺和歌集』は花山院による親撰で、成立は「・・・寛弘二年(一〇〇五)六月十九日より同四年
正月二十八日までの頃かと、推定されている。」(小町谷照彦[校注]『新日本古典文学大系7 拾遺
和歌集』[岩波書店,1990])(^^) 退位の経緯から花山院が「摂関家」に敬意を払うとは思えぬし、
今井源衛(古賀典子編)『今井源衛著作集 第9巻 花山院と清少納言』(笠間書院,2007)所収の
『花山院の生涯』には「花山院の晩年とくに寛弘年代に入ると、道長と院との関係はとみに親密さを
増した。」とあるから、そのお蔭で2首入集と邪推できたとしても、「摂関家」云々は無関係(^_^;)

『後拾遺和歌集』の撰集を近臣の藤原通俊に下命したのは白河天皇で当時は天皇親裁、また後に院政
を開始したぐらいだから、「摂関家の祖として」道長の5首を入集させたなんて考えられない(^_^;)

『詞花和歌集』は、崇徳院の院宣によって撰集したのは藤原顕輔なので、やはり考え難いかと(^_^;)
というのは、撰者の子息の歌は勅撰集に入った例が無いとして、藤原顕輔は子の藤原清輔の歌を入れ
なかったぐらいだから(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-01-31 )(^_^;)

『千載和歌集』は後白河院の院宣によるも撰者は「定家」の父の藤原俊成で、「身贔屓」したことは
久保田淳まで指摘してるし(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2017-06-09 )、
片野達郎&松野陽一(校注)『新日本古典文学大系10 千載和歌集』(岩波書店,1993)の巻末の松野
陽一「解説」でも「・・・俊成が再び還るべき栄華の時代としてみなしていたと思われる道長前後の
時代・・・」と記され、巻第十六の雑歌上の巻頭歌に選ばれている道長の歌「数え知る人なかりせば
奥山の谷の松とや年を積ままし」について「撰者俊成の父祖の最も輝かしい賀会歌を巻頭に置く。」
と脚注で評してはいるけれど、「巻頭に置」いたことであって、入集させたことではないかと(^_^;)

『新古今和歌集』は撰者の一人に「藤原定家」も入ってるけど、実質上の撰者は後鳥羽院だし(^_^;)

「藤原定家の祖先でもある」とあるし、定家が独撰した『新勅撰和歌集』の4首を指すのかな(^_^;)