来てほしくはなかったけど、ニット帽&マフラー&手袋をしてても不自然でない季節が来た(^_^;)

【読んだ本】

高柳光寿&岡山泰四&斎木一馬(編集顧問)『新訂 寛政重修諸家譜 第五』(続群書類従完成会,1964)所蔵本

江戸・東京の坂の歴史に関する古典的著作らしい横関英一『江戸の坂 東京の坂』(中公文庫,1981)
と同『続江戸の坂 東京の坂』(中公文庫,1982)を出して披いたのは、いつも風雅な記事を書かれる
爛漫亭様の記事(⇒ https://otomoji-14.blog.ss-blog.jp/2022-11-19 )に触発されたため(^_^;)
横関英一が『続江戸の坂 東京の坂』で〈港区南麻布三丁目の「アカウサカ」は、保科肥後守の下屋敷
わきの坂なので、その名を、阿衡坂と呼んだのであろう。〉と主張してることを再び取り上げたけど
(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-12-01 )、幼い四代将軍家綱の補佐役
で名君と言われた保科正之をお飾りの職とされた「阿衡」と呼んだなんてどうにも「首肯しかねる」
(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-12-02 )(@_@;) この横関説に対し、
爛漫亭様から「アカウサカ」は「赤穂坂」の可能性は?「南麻布には浅野内匠頭下屋敷があったそう
ですので」という旨の興味深いコメを頂戴( ̄◇ ̄;) 小生などは全く気付かなかった御指摘なので、
『江戸の坂 東京の坂』の「二つの南部坂と浅野屋敷」及び『続江戸の坂 東京の坂』の「13 阿衡坂と
保科肥後守」を再読して、第一に明暦2年(1656年)に麻布の浅野内匠頭長直(長矩の祖父)の下屋敷
は赤坂築地の南部山城守重直の中屋敷と「相対替」し、「この時以降、麻布の浅野屋敷は、南部屋敷
に変わっ・・・」ており、「アカウサカ」と記す絵図は「文政五年」(1822年)のものであること、
第二に「アカウサカ」とは「ホシナヒゴ」(保科肥後守)の屋敷と「カメイノト」(亀井能登守)の
下屋敷との間にあって、「アカウサカ」の北側に「カメイノト」(亀井能登守)の下屋敷はあるが、
「江戸図正方鑑(元禄六年[1693年])」の部分図だと「カメイノト」(亀井能登守)の北側の道を
挟んで「南部信濃守」の屋敷があるので、おそらくかつての浅野内匠頭の下屋敷は「アカウサカ」と
全く接してないこと、第三に「赤穂」はいつまで「アカホ」(≠「アカウ」)と表記されていたのか
という問題があること、以上の3点を返信コメ(^_^;) しかし、第一の点は反証として弱いわな(^_^;)
んで、拾った本書(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-10-30 )の出番で、
清和源氏頼光流の土岐支流の淺野氏に「淺野長直」の項が(^_^;) なお、字体が異なる漢字もm(__)m

    ・・・正保二年六月二十二日領知を播磨國赤穂[あかほ]、加西[かさい]、加東
    [かとう]、佐用[さよ]四郡の内に[常陸國眞壁郡の笠間城から]うつさる。
    このとき仰せによりてあらたに赤穂城を築きてこれに住す。・・・

要は、「アカウサカ」のある南麻布の浅野内匠頭の下屋敷が「赤穂」と関連する期間は「正保二年」
=1645年から明暦2年(1656年)までの12年間で、「赤穂」は当時は「あかほ」と表記してた(^_^;)

浅野氏の前に赤穂を治めてた清和源氏頼光流の池田氏も、「池田政綱」の項に「・・・元和元年六月
二十八日播磨國赤穂[あかほ]郡をたまひ、三萬五千石を領す。・・・」とあり、「あかほ」(^_^;)

ちなみに、保科正之は、慶安4年(1651年)に四代将軍に就任した家綱を補佐し、寛文12年(1673年)
に死去している(@_@;) 結局、「アカウサカ」は何に由来するのか、小生には分からんな(@_@;)