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221201読んだ本

電気代節約した真っ暗な部屋でドアの角に尋常でない勢いでぶつけた頭を氷嚢で冷やしてて寒い(+_+)
昨日の歩いた疲れは取れたけど、昼食後から胃が凭れてる感じで、胃液が口から出そうになるし(+_+)

【読んだ本】

横関英一『続江戸の坂 東京の坂』(中公文庫,1982)所蔵本

江戸の絵図に「今日でいえば、南麻布三丁目五番六番の境を、西に上る坂・・・」を「アカウサカ」
と記しているものがあり、また別の絵図には当該坂の南側に「ホシナヒゴ」とあることから、

    ・・・「アカウサカ」とは、阿衡坂と書いたものと思われる。阿衡とは、天子の補佐
    たる摂政または宰相の異称である。ここではもちろん、徳川将軍の補佐役という意味
    であろう。そして、ここの保科肥後守が、その阿衡なのである。/保科肥後守は、
    もちろん保科肥後守正之のことである。・・・

    ・・・港区南麻布三丁目の「アカウサカ」は、保科肥後守の下屋敷わきの坂なので、
    その名を、阿衡坂と呼んだのであろう。・・・

と本書は主張してて、ウダダと〈藤原基経の阿衡事件(阿衡の紛議)で生じたはずの「阿衡」という
語の社会的負価性(マイナスイメージ)が無かったのか、チト気になるところC= (-。- ) フゥー〉とは
指摘したけど(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2019-10-16 )、当時の文献に
保科正之のことを「阿衡」と呼んでいたものが存在するのであれば、横関説は実証されるか(@_@;)
タグ:歴史 地理
コメント(8) 
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コメント 8

爛漫亭

 アカウサカは赤穂坂とも読めそうですね。
by 爛漫亭 (2022-12-01 22:39) 

tai-yama

阿衡坂46と言うアイドルグループができたり(笑)。
by tai-yama (2022-12-01 23:06) 

df233285

私にはどうやっても出来なくなりましたが。いまは若い方
でも、完全暗順応した視覚を短時間で作るのは、機会がほとんど
無いのでかなり困難です。そのため現代社会で電気をつけない
ときには、できるだけ消す前に窓を開けて、外部の「光害」を
入射させてから家の中を歩かないと、東京近辺では特に危険です。
by df233285 (2022-12-02 08:09) 

middrinn

討ち入り後に泉岳寺に向った道筋も考えましたけど、
爛漫亭様、少し寄り道になってしまうようで(^_^;)
ただし、「赤穂」は、いつの時代まで「アカホ」と
表記していたのかという問題がありますしね(^_^;)
by middrinn (2022-12-02 10:41) 

middrinn

( ^o^)ノ◇ 山田く~ん 阿衡坂46と言うアイドルグループができたり座布団1枚 ♪
tai-yama様、やはり名誉職で、何の権限も無いアイドルグループなんですかね(^_^;)
tai-yama様は芋洗坂46のセンターで御活躍ですかねウキウキ♪o(^-^ o )(o ^-^)oワクワク♪
by middrinn (2022-12-02 10:53) 

middrinn

本や雑誌、新聞の切り抜きや書類が散乱してて足の踏み場もない部屋なので、
長さん様、足元の方ばかりに気を取られてしまって、ぶつけました(^_^;)
その直前に中村彰彦『保科正之 徳川将軍家を支えた会津藩主』(中公新書,
1995)を出してきたためドアが開き具合が常態と変わったようです(^_^;)
by middrinn (2022-12-02 11:18) 

爛漫亭

 南麻布には浅野内匠頭下屋敷があったそうですので、
江戸の地理は不案内ですが、赤穂坂が在ってもいいよ
うな?? (wiki「南部坂」参照)
by 爛漫亭 (2022-12-02 11:36) 

middrinn

wikiの「南部坂」の歴史的説明は横関英一『江戸の坂 東京の坂』(中公文庫,1981)
の「二つの南部坂と浅野屋敷」に依拠したもので、「明暦二年[1656年]二月、南部
山城守重直の赤坂築地の中屋敷と、浅野内匠頭長直[←長矩の祖父]の麻布の下屋敷
とが、相対替になったのである。この時以降、麻布の浅野屋敷は、南部屋敷に変わった
のであった。」と同書にあります(^_^;) リンク先の「191016読んだ本&買った本」
には本書の記述に基づいて〈文政五年の「分間江戸大絵図」に「アカウサカ」という名
が見えるが、・・・〉云々と書きましたが、「文政五年」は1822年で、既に南麻布に
「浅野内匠下屋敷」は存在しません(^_^;) 本書の「13 阿衡坂と保科肥後守」という
一篇に〈元禄六年[1693年]の江戸絵図には、この坂[=「アカウサカ」]の南側に、
「ホシナヒゴ」とあり、この坂を挟んでその北側には、「カメイノト(亀井能登守)」
の下屋敷がある。〉と説明があり、「アカウサカ」は保科肥後守の屋敷と亀井能登守の
屋敷との間にあるわけですが、同篇に掲載されている「江戸図正方鑑(元禄六年)」の
部分図を見ると、「カメイノト」の北側に道を挟んで「南部信濃守」の屋敷があるのが
判ります(^_^;) おそらくコレがかつては「浅野内匠下屋敷」だったのでしょうけど、
「アカウサカ」には隣接してないわけです(^_^;) あと表記の問題が残ります(^_^;)
by middrinn (2022-12-02 12:49) 

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