お前が言うか!?( ̄◇ ̄;)と驚かされることが結構あったりする〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

【読んだ本】

倉本一宏(全現代語訳)『藤原道長「御堂関白記」(中)』(講談社学術文庫,2009)所蔵本

驚かされたのは藤原道長の日記『御堂関白記』の長和元年(1012年)正月2日条、本書の訳で(@_@;)

     二日、庚午。 中宮大饗

    中宮大饗に参った。諸卿が座に着した。数献の宴飲の後、和歌を詠んだ。侍従中納言
    (藤原行成)が盃を献上した際に提案した事である。源宰相(源頼定)が、皆の歌を
    執筆[しゅひつ]した。人々が酩酊した。雨が降った。大雨であった。

藤原行成が「和歌を詠」むことを「提案した」というのには驚かされた(@_@;) 祖父の一条摂政こと
藤原伊尹は優れた歌人として知られ『後撰和歌集』の撰者にもなったというのに(工藤重矩[校注]
『和泉古典叢書3 後撰和歌集』[和泉書院,1992]の「解題」による)、藤原行成は『大鏡』によって
「この大納言殿、よろづに整ひたまへるに、和歌の方や少し後れたまへりけむ。」云々と酷評され、
同件を石川徹(校注)『新潮日本古典集成 大鏡』(新潮社,1989)は「行成歌道を除けば多芸多能」
と見出しを付け、「『後拾遺集』以下の勅撰集にも九首入集しており、特に拙いとも思われないが、
あまり得意ではなかったのであろう。・・・」と頭注(@_@;) 目崎徳衛『王朝のみやび』(吉川弘文
館歴史文化セレクション,1978→2007新装版)の「行成の光彩と陰翳」も「・・・和歌にも格別の才は
示さなかった・・・」とし(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-03-22 )、
黒板伸夫(日本歴史学会編集)『藤原行成』(吉川弘文館人物叢書,1994新装版)267頁が「・・・/
和歌の才については、行成はこの道に不得手であったと伝えられているが、・・・和歌の催しにも
かなり出席しており、不得手とはいっても、まず当時の一般的水準であったのであろう。/・・・」
と弁護している程度(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-03-21 )(@_@;)

和歌が下手ならば詠むことも嫌なはずで、萩谷朴『枕草子解環 三』(同朋舎出版,1982)も「・・・
『権記』によって調査した結果では、行成が詩会・歌会・歌合等の文芸の催しに参加することは人後
に落ちぬ頻繁なものがあったが、詩作はともかくとして、和歌の実作を多く残していない点では、
本段に、詠歌恐怖症を自称していることも首肯されよう。/・・・」とか、「・・・行成自身が詠歌
を好まず・・・」と記しているほど(@_@;) なのに「和歌を詠」むことを自ら「提案」とは(@_@;)

藤原実資は研究者から和歌は「不得手」とレッテルを貼られているけど、下手の横好きだったのかも
と指摘したことはある(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-09-29 )(@_@;)

とまれ、三蹟の一人とされる藤原行成を前に執筆の役を務めた密通王・源頼定は緊張したかも(^_^;)