「性愛の描写」というのが気になって調べてしまう人もいるんだろうな〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
庭の端に移植したトロロアオイ、メチャ大きな花を咲かせるも台風が来る前に既に折れてた(@_@;)

【読んだ本】

土橋寛『日本古典評釈・全注釈叢書 古代歌謡全注釈 日本書紀編』(角川書店,1976)
大久保正(全訳注)『日本書紀歌謡』(講談社学術文庫,1981)

先日読了した井上靖『ある偽作家の生涯』(新潮文庫,1956→1970改版)所収の短篇小説「玉碗記」
(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-07-23 )の次の件に目が留まった(^_^;)

    ・・・木津は書棚から部厚い日本書紀の通釈書を持ち出して来て、その頁を開けて
    私の前に置いた。そしてその時半ば強要するように、私に読ませたのは、安閑天皇が
    皇太子の頃、春日皇女を妃として迎え、「月の夜すがら清談[ものがたり]して不覚
    [おろか]に天暁[あ]けぬ。斐然之藻[ふみつくるのみやび]、忽[たちまち]に
    言[こと]に形[あらは]れ、乃[すなは]ち口唱[くちづからうた]ひて」という
    断わり書きの後に続いて出てくる天皇の妃に対する愛情の歌唱とそれに応えた妃の歌唱
    であった。/・・・

モチ気になったのは、二人が「月の夜すがら清談して」という件である〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
『蜻蛉日記』の「月夜のころ、よからぬ物語して」という件を、木村正中&伊牟田経久(校注・訳)
『蜻蛉日記』(菊地靖彦&木村正中&伊牟田経久[校注・訳]『新編日本古典文学全集13 土佐日記
蜻蛉日記』[小学館,1995]所収)129頁が「月夜のころ、月の光を浴びながら語り合うなど不吉な
ことだが、・・・」と誤訳し、上村悦子(全訳注)『蜻蛉日記(上)』(講談社学術文庫,1978)も
同様に「月夜のころ、月光を浴びながら語り合うなど不吉なことをするにつけても、・・・」と誤訳
した上で語釈でも「月光を浴びつつ物語をするのは不吉とされた。中国伝来のもの。」とテキトーな
ことを書き散らしていた(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-04-30 )(^_^;)
〈月の光を浴びながら語り合うのは不吉〉なら『日本書紀』の上記件も注釈書はその旨を指摘してる
はずだがと一応調査も予想通り( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚ 「清談して」の語釈、土橋寛・296頁が〈「清談」は
高尚な話。特に老荘の流れを汲んで、俗世を離脱した無為自然の幻想的談論を言う。魏・晋のころに
流行し、竹林の七賢はその代表者。安閑天皇が春日皇女を妻問うた時の会話を表わす語としては、不
適当であり、特に歌の内容とはひどくちぐはぐである。〉、大久保正・285頁も〈「清談」は、老荘
思想にもとづき、世俗を離れた清浄無為の談論をすることをいう語で、魏・晋のころ流行し、竹林の
七賢に代表される。ここでは単に清らかに語り合う意に用いたのであろうが、それにしても歌の内容
にまったく合わない。〉( ̄◇ ̄;) 「清談」なのに「歌の内容」が「性愛の描写」だからねぇ(^_^;)