読書の厄介なところは、ムースクトンだけは憶えられなかったことである〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
他の従者、プランシェ、グリモー、バザンはすぐに憶えられたんだけどね〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

【読んだ本】

君塚直隆『悪党たちの大英帝国』(新潮選書,2020)

    第五章 パーマストン子爵──「砲艦外交」のポピュリスト

     軽佻浮薄なポピュリスト?/アイルランド貴族の家に生まれ/混迷の時代の
     陸軍事務長官職/外相就任とロンドン会議の掌握/会議外交の始まり/
     メッテルニヒとの対決/革命の時代──ヨーロッパ自由主義の王者/
     外相辞任──女王夫妻との確執/復活──クリミア戦争と首相就任/
     ヨーロッパとイギリスの転換期/時代の移り変わりと老首相の死/
     未来の予見者?/

本書の第五章を読んでパーマストンに対するイメージが崩壊(@_@;) ホント勉強になる本書(⌒~⌒)
こんなにも複雑で、ふてぶてしく、したたかな政治家だったとは( ̄◇ ̄;) 困ったチャンだけど(+_+)
メッテルニヒの「もし悪魔に子どもがいるとしたら、それはパーマストンに違いない」(本書168頁)
というパーマストン評、文字面において同感(^_^;) 話を戻すと、パーマストンと言えば、外相として
「砲艦外交」を展開したことで知られているけど、本書179~180頁には次の記述( ̄◇ ̄;)

    ・・・/このような「会議による平和」の体制を最初にヨーロッパ国際政治に
    根づかせたのが、ウィーン会議以降の会議を取り仕切ったオーストリア宰相
    メッテルニヒであった。/こののちヨーロッパでは、後述するクリミア戦争
    まで大国同士の戦いは起こらず、このような平和な時代は、メッテルニヒが
    主導した最初の会議にちなみ「ウィーン体制(一八一五~七〇年)」と
    呼ばれた。しかし、それはあくまでも弱小国や弱小民族の犠牲の上に成り立つ
    強国の論理に基づいた平和にすぎなかったのだ。/パーマストン議長の下で
    進められたロンドン会議には、それまでメッテルニヒが主催する会議には
    招かれなかったような弱小国、オランダとベルギーの代表も招かれ、彼らからも
    意見を徴した上で、最終的には五大国の合意で決定が下された。それは一九世紀
    のイギリスに見られた自由主義的な発想に基づく会議であり、メッテルニヒが
    保守反動的に進めた「会議体制(Kongreß System)」に替わる、新たな
    「会議外交(Conference Diplomacy)」の始まりでもあった。/・・・

しかも、メッテルニヒによる講和会議にはつきものであった「領土補償」=「大国間の衝突を抑える
ために紛争地となった小国の領土を大国同士で分割するもの」がパーマストンの会議では「いっさい
おこなわれなかった」ということで、あのタレーランも「キャベツ畑やぶどう園の一片たりとも手に
入れられない」と吃驚仰天したと本書178頁にあった( ̄◇ ̄;) 「砲艦外交」というイメージを完全に
裏切ってくれたわ( ̄◇ ̄;)「砲艦外交」をしたのも事実だけど(^_^;) それにしても、この時期は、
メッテルニヒ、タレーラン、パーマストンと役者が揃ってるよね(⌒~⌒) この後にも、ビスマルク、
ディズレーリと続くんだから、彼らの打打発止というより手練手管を尽した駆け引き、傍から観てる
分には面白いぞ(^_^;) なお、河野健二『現代史の幕あけ ─ヨーロッパ1848年─』(岩波新書,1982)
には、〈イギリスはチャーティズムをのり切ったのち、ヨーロッパ諸国の革命運動にたいしては、
パーマストンによる「傍観者外交」をつづけ、むしろ「自由貿易」を旗じるしとして、中東やインド
への進出をはかった。〉とあるけど、座布団はあげられん(´・_・`) 一昨日の前章でも指摘したけど、
本書には理解を助けてくれるような年表を付けてほしかった(^_^;) 特に内閣は、いつからいつまでは
首班が誰で、どの党派によって組織されたのか、本章には必要かと(^_^;) 当時の首相も多士済々で、
特にジョージ・カニングやロバート・ピールは伝記とかあるなら、いつか読んでみたいな(〃'∇'〃)