読書の厄介なところは、興味もない偉人の結婚歴も判ってしまうことである〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)

【読んだ本】

角田文衞『平安の春』(講談社学術文庫,1999)所蔵本

    ・・・/言うまでもなく式部は、父の官名に因んだ女房名、紫式部は、
    『源氏物語』の作者に寄せられた綽名である。実名の方は判然としないが、
    香子[たかこ]と言った可能性が多い。/・・・

本書所収の「紫女と清女」の一節(原文ママ)だが、紫式部= 藤原香子説に対し批判が結構あること
はモチ知ってるけど、首唱者である角田文衛の主著を読んでいないので、何とも言えないね(@_@;)

ところで、倉本一宏(全現代語訳)『藤原行成「権記」(上)』(講談社学術文庫,2011)85頁から
長徳3年(997年)8月19日条の末節(見出しの「諸国申請雑事定」に相当する件)を引く(@_@;)

    ・・・/今日、左大臣[藤原道長]は、陣座において、雑事を定められた。
    戌剋に定文を奏上した。摂津守[藤原]理兼朝臣が申請した雑事十三箇条、
    美濃守護(源)為憲が申請した雑事三箇条、伯耆守(源)政職が申請した
    異損田を免されたいという事、及び故大膳大夫(紀)時文の後家(藤原)香子が
    申請した事である。子細は「奏文目録」に見える。/

呼び名が同じなら別人であっても同一人物としてしまうデタラメな考証が常習のバカチン歴史家は、
紫式部は紀貫之の不肖の息子とされる紀時文の妻だったとか主張してるのかしらとニヤニヤしながら
同書を読んでたら、wikiの「紫式部」の項の「婚姻関係」のところに次の記述がヒィィィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ

    紫式部の夫としては藤原宣孝がよく知られており、これまで式部の結婚は
    この一度だけであると考えられてきた。しかし、「紫式部=藤原香子」説
    との関係で、『権記』の長徳3年(997年)8月17日[ママ]条に現れる
    「後家香子」なる女性が藤原香子=紫式部であり、紫式部の結婚は藤原宣孝
    との一回限りではなく、それ以前に紀時文との婚姻関係が存在したのではないか
    とする説が唱えられている。

この説を唱えているという上原作和の論文も未読ゆえ、その当否に関しては何も言えないけど、仮に
紫式部に「紀時文との婚姻関係が存在した」のなら、紫式部にはジジ専疑惑が生じちゃうわな(^_^;)

紀貫之と同世代(藤岡忠美『紀貫之』[講談社学術文庫,2005]は「貫之より五歳ほども若い」と)の
藤原兼輔が紫式部の曽祖父なので、紀時文は貫之の晩年の子だけど紫式部の祖父か父と同世代(^_^;)

迫徹朗「紀貫之の妻」(同『王朝文学の考証的研究』[風間書房,1973]所収)は、母が藤原滋望女と
なると(時文の「時」は滋望の父の藤原忠文にあやかったと推定)、紀時文は延長6年(928年)生と
推定しているv( ̄∇ ̄)ニヤッ wikiの「紀時文」の項によると「延喜22年(922年)」生説もある(^_^;)
紫式部は「近年の研究では、天禄元年(970年)から天元元年(978年)の間に生」れたとwiki(^_^;)
そうなると、紀時文と紫式部の年齢差は42歳~56歳ということになっちゃうオホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)

夫だったことが確実な藤原宣孝も、紫式部とは「父親にも等しい大きな年齢差」(萩谷朴『日本古典
評釈・全注釈叢書 紫式部日記全注釈 下巻』[角川書店,1973]の「解説」)があったとされており、
萩谷朴・前掲書は「長徳四年に宣孝と結婚したときの紫式部の年齢を二十五歳と仮定すると、・・・
宣孝は既に四十九歳、全く父娘ほども年齢は違っていたのである。」(^_^;) 手元の他の本を見ても、
清水好子『紫式部』(岩波新書,1973)も「式部の結婚は、長徳四年(九九八)末ごろと推定される。
宣孝は四十五歳以上、式部も二十五、六歳を過ぎていたであろう。」、山本利達(校注)『新潮日本
古典集成 紫式部日記 紫式部集』(新潮社,1980→2016新装版)も「・・・この[長徳四]年の冬頃
結婚したと考えられる。宣孝は四十九歳位、紫式部は三十歳に近かったであろう。」としてる(^_^;)