岩波文庫創刊70年記念の1996年12月の「図書」臨時増刊号「私の三冊」において、「中学生の頃から
愛誦しているが、なぜ万葉集でなく新古今かと問われると難しい。学卒直後の味気ない勤め人時代、
往き帰りの車内でくり返し読んだ折の甘美な味は忘れがたい。」とのコメントを付して、佐々木信綱
(校訂)『新古今和歌集』も挙げてるけど、和歌を正しく読み解いて味わえていたとは思えぬ(^_^;)

【読んだ本(バカチン)】

今谷明『歴史の道を歩く』(岩波新書,1996)所蔵本

本書の「Ⅲ 生野の変の舞台 但馬街道・真弓峠」の書き出しには吃驚仰天∑( ̄ロ ̄|||)ニャンと!?

      大江山 生野の道の遠ければ

        まだ文も見ず 天の橋立

    和泉式部の娘として著名な小式部内侍のこの古歌にいう生野は、種々の説があるけれども、
    大江山を山城葛野の大枝山と解すれば、丹波・播磨へ抜ける道の先にある生野と解する
    ことも可能ではあるまいか。すなわち、銀山で有名な生野である。・・・

「銀山で有名な生野」は京と丹後を結ぶ道から遠く外れててありえんヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!

有吉保(全訳注)『百人一首』(講談社学術文庫,1983)から、同歌の〔現代語訳〕と〔鑑賞〕の一部
を引く( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚

    大江山を越え、生野を通って行く道は遠いので、まだ天の橋立の地は踏んでみたことも
    ありませんし、まだ母からの文も見ていません。

    /『金葉集』の長い詞書によれば、母の和泉式部([歌番号]56の作者)が夫の藤原保昌
    に伴われて丹後国に下向していたころ(寛弘七〈一〇一〇〉年ごろ)、都にいた小式部内侍
    は歌人として歌合に召されたが、藤原定頼([歌番号]64の作者)が宮中の局に訪れて、
    「歌はどうなさいました。代作してもらうために、丹後に人を遣わしましたか。文を持った
    使者は帰って来ませんか。さぞや心配でしょうね」と戯れた際に、定頼を引き留めて即座に
    詠んだ歌である。一首の中心は、母のいる丹後国への道筋にある地名「大江山」「生野」
    「天の橋立」を順次に詠み込んで、その距離感を暗示させ、さらに、「いく野」「ふみも
    みず」の掛詞[←「いく」と「ふみ」に傍点]、「踏み」「橋」の縁語などの表現技巧を
    駆使して仕立て上げ、即詠してみせた点にある。・・・

〈丹後国への道筋にある地名「大江山」「生野」「天の橋立」を順次に詠み込ん〉だ歌なのに京から
「丹後国への道筋」に無い「銀山で有名な生野」だなんて、この歌が解ってないかと( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚
丹後国は丹波国を間に挟んで平安京のある山城国の北北西の位置なのに、丹波国の西側の「播磨[国]
へ抜ける道」から丹後国の西隣の但馬国にある「銀山で有名な生野」まで迂回するわけねーだろ(-"-)

念のため、井上宗雄『百人一首を楽しくよむ』(笠間書院,2003)131頁から引いとくC= (-。- ) フゥー

    ・・・/ちなみにいうと、生野は同名の地が兵庫県朝来郡にもあり(銀山と
    幕末の生野の変で有名)、大江山は京都府与謝郡にもあるが(丹波と丹後の
    国境をなす山。御伽草子の酒呑童子で有名)、ともに別の地である。・・・

なお、『平家物語』巻第三の「大臣流罪」の「・・・彼[かの]大江山やいく野の道にかかりつつ、
丹波国村雲と云ふ所にぞ、・・・」の件に対する水原一(校注)『新潮日本古典集成 平家物語 上』
(新潮社,1979)276頁の頭注一も「小式部の歌」が〈丹後国への道筋にある地名「大江山」「生野」
「天の橋立」を順次に詠み込んで、その距離感を暗示させ〉たことが解ってない( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚

    「大江山生野の道の遠ければまだふみも見ず天の橋立」(『金葉集』雑、小式部内侍)を
    ふまえて丹波路の遠いことをいったもの。しかし「大江山」は京都府与謝郡・加佐郡・
    天田郡境の山、「生野」は京都府福知山市生野でいずれも村雲より先である。もっとも
    京都市右京区大枝の老坂も大江山と称し、山城・丹波境の要路だが、小式部の歌は
    それではあるまい。

[追記201231]

岩波文庫『新古今和歌集』の校訂者の「佐々木信綱」は「佐佐木信綱」が正しい表記でしたねm(__)m