誰かが読んでるのかもしれないのに、んなこと書いて大丈夫なのか?と思うようなブログも( ̄◇ ̄;)

【読んだ本】

倉本一宏編『現代語訳 小右記4 敦成親王誕生』(吉川弘文館,2017)

「不思議でならない」と倉本一宏が藤原実資の日記『小右記』について書いてるエッ(゚Д゚≡゚Д゚)マジ?
同編『現代語訳 小右記1 三代の蔵人頭』(吉川弘文館,2015)の「はじめに」で同書4~5頁(@_@;)

    ・・・/なお、『小右記』には藤原兼家や道隆、道長など、政権担当者に
    対する批判的な記事が多いが、それは日記の中だけでの話であり、実資自身は
    現実には彼らと良好な関係を続けていたものと思われる点に留意しなければ
    ならない。また、儀式に際して違例を行なった貴族に対する批判も激しいが、
    『小右記』が実資の生前から宮廷社会において読まれていたことを考え併せると、
    不思議でならない。/・・・

他人に「批判的な記事」も「実資の生前から宮廷社会において読まれていた」可能性がヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ

例えば、寛弘8年(1011年)7月18日条を本書から引く(本書172~173頁)〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

     十八日、己丑。 公任父子、一条院に等閑の事/俊賢等、一条院を誹謗嘲弄

    「皇太后宮大夫[藤原公任]および子(藤原)定頼が、故[一条]院の御為に、
    等閑の事が有った」と云うことだ。「先夜、左府[道長]の直廬に於いて、
    近習の上達部が会合し、一条院を誹謗・嘲哢することが有った」と云うことだ。
    「その先頭の人は、礼部[れいほう]納言〈[源]俊賢。〉であった」と云う
    ことだ。年齢は五十歳を過ぎ、本人は院の一族ではないか。ああ、ああ。・・・

6月22日に崩御された故一条院(13日譲位、19日出家)に対して藤原公任・定頼父子に「等閑の事」が
7月18日にあり、更にその前日の17日には源俊賢らが「誹謗・嘲哢」してたというのだ((;゚Д゚)ヒィィィ!

同条のこの出来事は倉本一宏(日本歴史学会編集)『一条天皇』(吉川弘文館人物叢書,2003新装版)
や小町谷照彦『王朝の歌人7 藤原公任』(集英社,1985)も取り上げてて、たしかに興味深いのだが、
この翌日に次の出来事があったことも気になるわなC= (-。- ) フゥー 寛弘8年(1011年)7月19日条を
本書173頁から引く( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚

     十九日、庚寅。 一条院御念仏/俊賢、実資を讒言

    申剋の頃、院に参った。藤納言(隆家)・侍従中納言[行成]、右衛門督[懐平]・
    右宰相中将(兼隆)に逢った。数剋、清談した際、左府[道長]が、経通朝臣を介して、
    伝えられて云ったことには、「今日は慎しむところが有って、逢えない」ということだ。
    御念仏が終わり、深夜、退出した。上達部や殿上人が、御前に伺候した。座席は有った。
    ところが私は、侍所に伺候した。源中納言(俊賢)・兵部卿(忠輔)、左兵衛督[実成]が、
    御前の座に伺候した。源中納言俊賢は、下官の為に、近日、頻りに讒舌した。
    未だその意味がわからない。

藤原実資は自身が源俊賢から「頻りに讒舌」されたことの「意味がわからない」と不思議がるけど、
前日の日記に書いた「批判的な記事」を源俊賢本人に既に「読まれていた」からだったりして(^_^;)

昔アップして半日後に記事内で批判した研究者から弁解めいたコメントを頂戴したことがあったが、
『小右記』も実は当時ネット上で公開されていたから、すぐに伝わ・・(._+ )☆ヾ( ̄ヘ ̄; )アホか!
冗談はさておき、藤原実資の身辺に藤原道長側のスパイがいて『小右記』を盗み見てる疑惑(¬。¬ )

ちなみに、藤原公任、藤原行成と並んで、一条朝の「四納言」と言われた源俊賢と藤原斉信だけど、
寛弘8年(1011年)7月26日条に次の人物評が記されてる(本書176~177頁)オホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ!

     二十六日、丁酉。 斉信・俊賢、道長に讒言/俊賢、顧問の臣たるべきを奏上

    近日、上下の者が云ったことには、「斉信・俊賢両人は、左相府の直廬に於いて、
    毎日、尊卑を讒言している。特に俊賢は狂ったようである」と。或いは云ったとこには、
    「俊賢は、先主(一条天皇)の代のように、顧問の臣となるということを、書状で女房
    〈天皇の御乳母。謂うところの本宮宣旨。〉の許に送った。すぐに奏聞を経たところ、
    [三条]天皇の機嫌は不快となった」と云うことだ。聞く毎に、このような事ばかりで
    ある。もしかしたら尋常ではないのではないか。貪欲・謀略の風聞が、共に高い人である。