網戸の修繕と違って障子の張り替えは小生には難しく小学校低学年の図画工作の如き出来栄えに(-ω-、)
【読んだ本】
萩谷朴『風物ことば十二カ月』(新潮選書,1998)所蔵本
日課で読んでる本書の「五月」の「牡丹」と題した項の〆の文章を引く〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
・・・/我国へは、平安朝の初め、白楽天の牡丹の詩などと共に渡来したのでしょうが、
右大将道綱の母は、牡丹の花の散ったあとの淋しさを『蜻蛉日記』に記し、中国趣味の
清少納言は、露台の前に植えられた牡丹の唐めいた美しさを『枕草子』に讃えております。
先ず『蜻蛉日記』の方だが、上村悦子(全訳注)『蜻蛉日記(中)』(講談社学術文庫,1978)から
当該件と、その現代語訳、「花も一時[ひととき]」の語釈を引く( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚
・・・/まづ僧坊におりゐて、見出だしたれば、前に籬結[ませゆ]ひ渡して、また、
何とも知らぬ草にもしげき中に、牡丹草どもいと情けなげにて、花散りはてて立てるを
見るにも、「花も一時」といふことを、かへしおぼえつつ、いと悲し。/・・・
・・・/寺につくと、まず庫裏[くり]に落ち着いて、外に目を向けると、
庭先に籬垣[ませがき]を結いめぐらしてあり、また、なんというのか
名も知らない草がこんもり茂っている中に、牡丹がまったく情けない姿で、
すっかり花びらも散り失せて立っているのを見るにつけ、「花も一時」という
古歌をくり返し思い浮かべつつ、ひどく悲しくなった。/・・・
/「秋の野になまめき立てる女郎花あなかしがまし花も一時」(『古今集』雑体・遍昭)
を本歌。花の散った牡丹を見ての感慨はやがて自己の身の上の返照につながる。/
「秋の野に美しさを競い合って立っている女郎花よ。ああ、やかましいことだ、花の盛りもわずか
一時だというのに。」(小町谷照彦[訳注]『古今和歌集』[ちくま学芸文庫,2010]の訳)という
女郎花を擬人化した歌を引いて、道綱母は自らの人生も盛りが過ぎてしまったと嘆いた件であって、
「牡丹の花の散ったあとの淋しさを『蜻蛉日記』に記し」たとの紹介は如何なものかしら(@_@;)
次に『枕草子』の方だが、コレは里下がりしたままの清少納言に帰参を促そうとした源経房の発言中
に出てくるもので、萩谷朴『枕草子解環 三』(同朋舎出版,1982)の訳だと次の通りである(@_@;)
・・・/「・・・露台の前に植えられてあった牡丹なんかの、(枯れ葉の)風情のある
ことったら」なんておっしゃる。/・・・
語釈も「経房は、・・・などを語り伝えて帰参を促していたが、最終的な決め手として、中宮[定子]
の淋しいご心境を、露台の前の枯れ枯れな牡丹の葉と、『白楽天詩集』巻九・・・の詩境に託して、
清少納言の頑なに閉じた心を開こうと試みた。清少納言の漢詩・唐様好みに調子を合わせたのである。
・・・」とし、「牡丹の唐めいた美しさ」では牡丹の花が美しく咲いてると誤解されないかな(@_@;)
週刊新潮2016年10月20日号で次のように自画自賛した新潮社校閲部も指摘しなかったのかしら(@_@;)
・・・手前味噌で恐縮だが、新潮社の校閲部と言えば、出版業界では“超一流”
として知られた存在。・・・
【読んだ本】
萩谷朴『風物ことば十二カ月』(新潮選書,1998)所蔵本
日課で読んでる本書の「五月」の「牡丹」と題した項の〆の文章を引く〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
・・・/我国へは、平安朝の初め、白楽天の牡丹の詩などと共に渡来したのでしょうが、
右大将道綱の母は、牡丹の花の散ったあとの淋しさを『蜻蛉日記』に記し、中国趣味の
清少納言は、露台の前に植えられた牡丹の唐めいた美しさを『枕草子』に讃えております。
先ず『蜻蛉日記』の方だが、上村悦子(全訳注)『蜻蛉日記(中)』(講談社学術文庫,1978)から
当該件と、その現代語訳、「花も一時[ひととき]」の語釈を引く( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚
・・・/まづ僧坊におりゐて、見出だしたれば、前に籬結[ませゆ]ひ渡して、また、
何とも知らぬ草にもしげき中に、牡丹草どもいと情けなげにて、花散りはてて立てるを
見るにも、「花も一時」といふことを、かへしおぼえつつ、いと悲し。/・・・
・・・/寺につくと、まず庫裏[くり]に落ち着いて、外に目を向けると、
庭先に籬垣[ませがき]を結いめぐらしてあり、また、なんというのか
名も知らない草がこんもり茂っている中に、牡丹がまったく情けない姿で、
すっかり花びらも散り失せて立っているのを見るにつけ、「花も一時」という
古歌をくり返し思い浮かべつつ、ひどく悲しくなった。/・・・
/「秋の野になまめき立てる女郎花あなかしがまし花も一時」(『古今集』雑体・遍昭)
を本歌。花の散った牡丹を見ての感慨はやがて自己の身の上の返照につながる。/
「秋の野に美しさを競い合って立っている女郎花よ。ああ、やかましいことだ、花の盛りもわずか
一時だというのに。」(小町谷照彦[訳注]『古今和歌集』[ちくま学芸文庫,2010]の訳)という
女郎花を擬人化した歌を引いて、道綱母は自らの人生も盛りが過ぎてしまったと嘆いた件であって、
「牡丹の花の散ったあとの淋しさを『蜻蛉日記』に記し」たとの紹介は如何なものかしら(@_@;)
次に『枕草子』の方だが、コレは里下がりしたままの清少納言に帰参を促そうとした源経房の発言中
に出てくるもので、萩谷朴『枕草子解環 三』(同朋舎出版,1982)の訳だと次の通りである(@_@;)
・・・/「・・・露台の前に植えられてあった牡丹なんかの、(枯れ葉の)風情のある
ことったら」なんておっしゃる。/・・・
語釈も「経房は、・・・などを語り伝えて帰参を促していたが、最終的な決め手として、中宮[定子]
の淋しいご心境を、露台の前の枯れ枯れな牡丹の葉と、『白楽天詩集』巻九・・・の詩境に託して、
清少納言の頑なに閉じた心を開こうと試みた。清少納言の漢詩・唐様好みに調子を合わせたのである。
・・・」とし、「牡丹の唐めいた美しさ」では牡丹の花が美しく咲いてると誤解されないかな(@_@;)
週刊新潮2016年10月20日号で次のように自画自賛した新潮社校閲部も指摘しなかったのかしら(@_@;)
・・・手前味噌で恐縮だが、新潮社の校閲部と言えば、出版業界では“超一流”
として知られた存在。・・・