近所のヤンママ、かなりの美人だが、具体的にどこがと指摘できないけど、元ヤンのにおいが(@_@;)
コロナの副産物か旦那さんを初めて目撃、リーゼント、スタジャン、しかも背中に昇り竜の刺繍という
田舎のヤンキー風( ̄◇ ̄;) 女性を見る目があると自己満足も新ヤンキーの法則の発見には至らず(..)

【読んだ本】

村上陽一郎『ペスト大流行 ─ヨーロッパ中世の崩壊─』(岩波新書,1983年)所蔵本

大昔に付箋を貼って色々と書き込みまでして読了した本、「創造的休暇」と題した節を引く(⌒~⌒)

    /こうして始まった十七世紀イギリスのペストは、科学の歴史上きわめて重要な副産物を
    残したことになっている。というのも、このペスト流行期、一人の田舎出の青年が、
    ケンブリッジのトリニティ・カレッジを卒えたばかりであった。この青年の通っていた
    大学は、ペスト流行の凄まじさのために、何回かの休校を繰り返した。/仕方なく
    その青年は、休校中の大学を離れて、故郷の田舎に帰った。そして故郷の田舎で
    ぼんやりと日を過すうちに、光の分光的性質と、重力の逆二乗法則を、そしてさらに
    微積分計算の基本的アイデアを発見したと言われている。その青年の名は言うまでもなく
    アイザック・ニュートン。/この「已むを得ざる」休暇とか「創造的休暇」とか
    呼ばれるエピソードは、ヨーロッパ史上ペストのもたらした最も大きな「成果」として
    伝え継がれてきている。このエピソードは、実はニュートンその人に直接由来する。
    後年ライプニッツと微積分法の発明の先取権を争った際に、自分が非常に若い頃に
    すでにそのアイデアを得ていた、ということの弁明のために書いた文書のなかで、
    以上の三つの着想を挙げた上でこう述べている。「これら〔の発見〕はすべて、
    一六六五年と一六六六年のペストの流行した二年間のことであった。この時期は
    年齢からいって私の発見の最盛期にあたっており……」/しかし、このペスト流行に
    まつわるロマンティックな創造物語も、よくある英雄譚の一つで、どうやら、
    ニュートンの着想や細かい計算は、むしろ大学にいたときに得たものであって、
    ペストによる「創造的休暇」は、あり得たとしても、それは、着想の洗練化
    [ソフィスティケーション]に費やされたものと考えられる(たとえば島尾永康
    『ニュートン』岩波新書参照)。/そのうえ、重力の逆二乗法則の着想は、たしかに
    この時期に生れてはいたが、のちにフックとこの着想の優先権をめぐって
    争うことになったときに主張したものとは異なった根拠に基づいていたことが、
    今日では明らかになっている。/

この「後年ライプニッツと微積分法の発明の先取権を争った際に、・・・弁明のために書いた文書」、
短すぎて断定はできないが、村上陽一郎『西欧近代科学 その自然観の歴史と構造』(新曜社,1971)
で引かれている「ハレイ[←有名な彗星発見者]宛てのニュートンの弁明」と似てるような(@_@;)

    ・・・/ニュートンはこれ[ニュートンの剽窃とフックが抗議したこと]に対し、
    自分は一六六六年(例のトリニティ・カレッジの学生で、ペストのため故郷に
    戻っていたころ)に、すでに逆2乗の法則の定式化を完成していたとして、
    その証拠として、「惑星の公転周期はその軌道の中心からの距離の3/2乗に比例する
    というケプラーの〔第三〕法則から、私は惑星をその軌道に保っている力は、
    惑星の回転の中心からの距離の2乗に反比例しなければならない、と結論した。
    この事態は一六六五年と六年のペストの二年間にあったことである。というのは
    当時の私は、創造力の絶頂期にあり、後のどの時代よりも一層数学や自然学について
    思索していたからである」とハレイに伝えている。/・・・

この「ハレイ宛てのニュートンの弁明」、同書は明記してないが、文脈的に1686年か1687年(@_@;)

村上陽一郎が「大学院時代の指導教官」と「あとがき」に記されている中島秀人『ロバート・フック
ニュートンに消された男』(朝日選書,1996)には次の記述([ ]は原文ママ)があった(@_@;)

    ・・・/このときの一連の科学上の発見のことを、ニュートンは五〇年ほどたって、
    次のように振り返った。それによると、一六六五年の初めに数学のいくつかの発見を
    成しとげた彼は、

      一一月には、流率[微分]の直接的な方法を手に入れました。翌年の一月に
      色彩論に到達し、その五月には流率法の逆[積分]に入りました。この年に
      私は、重力が月の軌道まで広がっていると考えるようになりました。そして、
      (球殻内を回転する球体が球殻を押す力の見積もり方を見いだしていましたから)、
      惑星の周期がそれらの軌道の中心までの距離の二分の三乗に比例するという
      ケプラーの法則から、惑星を軌道にとどめている力は、回転中心から惑星までの
      距離の二乗に逆比例していなければならないと結論しました。それらを使って、
      月をその軌道にとどめるのに必要な力と地表の重力を比較したのですが、
      それらがかなりよく一致していると分かりました。これらはみな一六六五年から
      六六年のペストの二年間のことでした。

上記の「ハレイ宛てのニュートンの弁明」に類似するこの引用文は、文脈的に1715年か1716年頃の
ものかな(@_@;) 注によると、リチャード・S・ウェストフォール(著)田中一郎&大谷隆昶(訳)
『アイザック・ニュートン』(平凡社,1993)第1巻421頁に出てるらしいが、図書館は臨時休館(+_+)