風流人ではなく野次馬と思われたのか(ノ_-;)トホホ… 強風による桜吹雪を2階のベランダから眺めてたら、
佐川急便の車が止まり、降りてきたおじさんが「事故です。横転したみたいですよ」と駅へと続く道
の混雑の理由を親切に説明してくれたよ(^_^;) それにしても、桜の花は4月までもつのかな(´・_・`)
日曜日には大雪との予報もあるけどヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ 月曜日まではもってほしいぞo(-`д´- o)ガンバッテ!!

【読んだ本】

北山茂夫『日本の歴史4 平安京』(中公文庫,1973)所蔵本

ノーサイド1996年3月号の特集「ベストセラー再読」を見ると(データは「出版ニュース社及び同社刊
『出版年鑑』」)、1965年のベストセラー第1位は「日本の歴史 1~10回 井上光貞他 中央公論社」
とあり、ソレには本書の単行本(1965年刊)も含まれ、手元の本書は1980年3月25日発行の「九版」で
あるにもかかわらず、「多恨の歌人在原業平」と題した章に次の記述が∑( ̄ロ ̄|||)ニャンですと!?

    ・・・『日本三代実録』のかれの小伝には、「業平体貌閑麗、放縦拘わらず、
    略[ほぼ]才学有り、善く倭歌を作る」とある。・・・

『日本三代実録』の業平の卒伝は「略才学[漢詩文の才能]無し」だヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!

また些細なことをと嗤った人は小沢正夫『古今集の世界 増補版』(塙選書,1976年)を御覧あれ(^o^)丿

    ・・・/こういう折句とか、沓冠[くつかむり]とか、連歌とかいういわゆる
    雑体和歌は十世紀以後に、非常にさかんになるが、このようなものにも、
    漢詩からヒントをえたものは多いのである。業平がこういう和歌[「からごろも
    きつつなれにし妻しあればはるばる旅をしぞおもふ」は「かきつばた」の五字を
    各句の頭字にした折句]を作っていることはたいそうおもしろいことであるが、
    金子彦二郎氏は業平の歌の「老いらくの来む」「春のもの」「春や昔の春ならぬ」
    という用語は白楽天の詩句を和歌に取り入れたものであるとさえいっておられる。/
    けれども、「略才学無し」と『三代実録』に書かれた業平に、どの程度の漢文学に
    対する知識があったかは問題である。・・・

業平の和歌への漢詩文の影響の有無を考える上で『三代実録』の「略才学無し」との評は重要である
にもかかわらず、こんなミスをした北山茂夫(『万葉集』に関する著作も多い!)は問題ヾ(`◇´)ノ

目崎徳衛『日本詩人選6 在原業平・小野小町』(筑摩書房,1970)も引いておきますかC= (-。- ) フゥー

    ・・・正史「三代実録」は評して「略才学無きも、能[ママ]く倭歌を作る」と
    記した。彼の歌人的地位が生前すでに確立していたことが分る。国学者賀茂真淵
    (『伊勢物語古意』)は、渤海国使を鴻臚館(平安京に設けられた外客接待の客館)に
    迎接した程の業平が、詩文の才に欠けていた道理はないとして、「略才学有り」の誤り
    と断じたが、それはかえって贔屓の引倒しであろう。「三代実録」を編纂した
    大儒菅原道真等からみれば、業平の詩文能力などは物の数でもなかったに違いなく、
    それに引き替え、和歌をも解した道真の眼に、業平の歌人的天才は光彩陸離たるもの
    と映ったであろう。「三代実録」の評語は簡潔で正確なのだ。/・・・

たしか、渤海国使の接遇役は「体貌閑麗」という在原業平の見た目で選ばれたのではないかと今井源衛
『王朝の歌人3 在原業平』(集英社,1985)などは論じていたような気がする(@_@;)