東京都シガンシナ区も雪になったが安政7年3月3日(1860年3月24日)も雪だったから驚かない(ノ゚ο゚)ノ
疲労の所為で今日はメチャクチャ身体がダルい(+_+) 昨日注文した古本は昨夜の内にクリックポストで
発送されたから今日にも届くと愉しみにしていたのに明日になりそう(-ω-、) 浅田弘幸『テガミバチ』
集英社ジャンプ・コミックスは全20巻を所蔵しているのに14巻から20巻までしか見当らぬ(ノ_-;)ハア…

【読んだ本】

横井清(訳)『新井白石「読史余論」現代語訳』(講談社学術文庫,2012)

源頼朝の旗上げにも参加し、大力で有名な武士・仁田忠常、wikiから引く〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

    ・・・/頼朝死後は跡を継いだ二代将軍・源頼家に仕えた。頼家からの信任も厚く、
    頼家の嫡男一幡の乳母父となっている。建仁3年(1203年)9月2日、頼家が危篤状態に陥り、
    比企能員の変(比企の乱)が起こると、忠常は北条時政の命に従い、時政邸に呼び出された
    頼家の外戚・比企能員を謀殺した。5日、頼家が回復すると、逆に頼家から時政討伐の命令を
    受ける。翌晩、忠常は頼家の命を受けながらも、能員追討の賞を受けるべく時政邸へ
    向かうが、帰宅の遅れを怪しんだ弟たちの軽挙を理由に謀反の疑いをかけられ、
    時政邸を出て御所へ戻る途中で加藤景廉に殺害された。・・・

この展開を、石井進『日本の歴史7 鎌倉幕府』(中公文庫,1974)は「・・・表面上は一応つじつまが
あっているようである。しかし、わたくしは、ここにもまた多くの真実が伏せられたままであること
を認めずにはいられない。」とするが、「表面上は一応つじつまがあっている」と言えるか(@_@;)

新井白石は「考えてみるに、比企判官(能員)が討たれた事件は、すべて北条時政の謀略によるもの
であった。」(本書73頁)とした上で、次のように指摘(本書74頁)していた( ̄◇ ̄;)

    ・・・また頼家が忠常に命じて時政を討とうとしたというのも理解できない。まさしく
    時政の命令で判官(能員)を殺した人物に向かって、このような大事を、頼家が本当に
    命じえたであろうか。仮にそのようなことがあったとしても、当時その使者に立った
    堀藤次親家が、どうしてその事情を話さないわけがあろうか。時政は、頼家の怒りを
    受けたので、その罪を忠常に転嫁して殺してしまったのである。・・・

白石らしい合理的思考(⌒~⌒) なお、仁田忠常が源頼家の北条時政討伐命令を時政に告げなかった点
も謎(@_@;) 頼家から同じ命令を受けた和田義盛は時政に告げて堀親家は殺されたわけだし(@_@;)

・『現代語訳 吾妻鏡7 頼家と実朝』にある仁田忠常の富士の人穴探険に関する注の無教養ぶり(@_@;)

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