昨日の大雪による被害は玄関前に置いてるハナイカダの鉢の一部が根元からポキっ(;_;)といったことを
一年前の今日書いてたよ(´;ω;`)ウッ… こうやって毎日ブログを更新していれば、どうしても冒頭の
枕ネタが思い付かない時でも、過去のを使い回せるのよオホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)ヾ( ̄o ̄;)オイオイ来年は?
・・・と「190123読んだ本」の枕ネタに書いてたのを使い回すことにした〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

【読んだ本】

森田悌(全現代語訳)『続日本後紀(下)』(講談社学術文庫,2010)

今井源衛『王朝の歌人3 在原業平』(集英社,1985)37頁が『日本三代実録』として引用している原文
(ただし、訓み下し文)が『続日本後紀』の誤りであると昨日指摘したが、同書14頁も同様のミスで
ある可能性が高いので引いておくC= (-。- ) フゥー

    /さて、つぎに業平の父阿保親王について述べなければならない。親王は、薬子の変が
    起こったとき十九歳であった。皇太子でこそなかったけれど、平城天皇[←上皇が正確]
    の長男として、彼はその経過を、またその後十数年におよぶ父の老残憂愁の姿を、
    はたしてどんな思いで見ていたか。/しかも事は、心の問題にとどまらなかった。
    阿保親王薨去を伝える『日本文徳天皇実録』承和九年十月二十二日の略伝には、

     (前略)親王此ノ倉卒之(にわかに起こった)変ニ坐シ、大宰員外帥ニ出デテ
     十余年ヲ経、天長ノ初メニ至リテ特ニ恩詔有リ、京ニ入ルヲ得タリ。

    とあって、この事変に連座した親王は、大宰権帥として、九州の地に長く流人の身となった
    のである。帰京を許されたのは、父平城天皇[←上皇が正確]が天長元年(八二四)七月
    七日に崩じた後であり、京にもどったのは、その年の冬か次の年早々であろう。/・・・

『続日本後紀』の承和9年(842年)10月22日の記事の当該件を本書の原文(本書80頁。ただ、返点は
削って引用した)と現代語訳(本書77頁)で引く( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚

    ・・・親王坐此倉卒之変、出大宰員外帥、経十余年、至天長之初、特有恩詔、
    令得入京、・・・

    ・・・親王はこの突然の変事に連坐して、大宰員外帥として十余年を過ごし、
    天長の初めに恩詔により、帰京したのであった。・・・

今後は今井源衛が引用したものは全て文献名が正しいのか要確認だわな〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

さて、さて、さ~て! 本題に入るけど、念のため、その前に「承和の変」についておさらい(@_@;)

「承和の変」とは、仁明天皇(嵯峨上皇の子)の承和9年(842年)、嵯峨上皇の崩御直後、皇太子の
恒貞親王(故・淳和上皇[嵯峨上皇の弟]の子)に仕える伴健岑や橘逸勢が謀反の疑いで拘束され、
恒貞親王は皇太子の座から追われ、仁明天皇と藤原順子(藤原良房の妹)の子である道康親王(後の
文徳天皇)が皇太子に立てられた政変〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ その契機となったのは薬子の変で
嵯峨天皇側に敗れた平城上皇(嵯峨上皇の兄)の子の阿保親王(在原業平の父)による密告(@_@;)

気になったのは阿部俊子(全訳注)『伊勢物語(上)』(講談社学術文庫,1979)の次の記述(@_@;)

    ・・・ところが承和九年七月嵯峨上皇崩御を機に、伴健岑、橘逸勢が阿保親王を推戴、
    嵯峨体制に反乱しようとしたが、親王はこれを嵯峨皇太后橘嘉智子に通報してのがれ
    同年十月、上野・上総の太守で薨じている(『続日本後紀』)。/・・・

モチ「推戴」とは「おしいただくこと。組織の長として人を迎えること。」(『大辞林』初版第1刷)
だけど、伴健岑や橘逸勢は「阿保親王を」「反乱」の組織の長として迎えようとしたのかな(@_@;)

『続日本後紀』の承和9年(842年)7月17日の記事から阿保親王の密告内容を本書の原文(同書52頁。
ただ、返点は削って引用した)および現代語訳(同書42頁)で引く〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

    今月十日伴健岑来語云、嵯峨太上皇今将登遐、国家之乱在可待也、請奉皇子入東国者。

    今月十日、伴健岑が来て、「嵯峨太上天皇の死期が近づいて、国家に乱れが起きようと
    しています。皇太子恒貞親王を奉じて、東国へ向かおうと思います。」

森田悌は「皇子」を「皇太子恒貞親王」と解したわけだ(@_@;) 悩ましいことに、『続日本後紀』の
同記事の前後を見た限り、阿保親王も皇太子恒貞親王も「皇子」と呼ばれている箇所は無い(@_@;)
歴史学者の目崎徳衛『王朝のみやび』(吉川弘文館歴史文化セレクション,1978→2007新装版)は、

    ・・・/承和九年(八四二)七月十五日、その権威によって古代史上いまだかつて無い
    三十年間の太平を維持した巨星嵯峨上皇は、五十七歳の生涯を閉じた。ところが上皇の
    危篤が伝えられていた十日の夜、春宮坊帯刀の伴健岑という男が、ひそかに阿保親王を
    たずねて、「このチャンスに東国に走って乱を起こしては如何でございますか」と扇動
    した。阿保親王は嵯峨上皇の兄平城上皇の皇子で、本来ならば、この系統が皇位を継承
    すべきであった。ところが三十年前の薬子の変によって平城上皇方は打倒され、阿保親王
    自身も大宰府に流され、許されて帰京した後も陽の当たらぬ立場にいた。/健岑はそこに
    つけこんで謀叛をすすめたのであろうが、親王は驚愕し、情報をくわしく記した密書を
    太后橘嘉智子に送りとどけた。・・・

として、「皇子」は阿保親王を指していると解釈したみたい(@_@;) 皇太子恒貞親王を「推戴」して
阿保親王には与力・加勢を要請しただけと愚考するので、本書の森田悌の解釈を支持かなぁ(@_@;)