各部屋に一つずつ置いても余ってる100円ショップの老眼鏡、プラスチックのフレームが割れてレンズが
落ちちゃうのをセロテープで補強して使い続ける自分の性格にゴミ屋敷化の原因の一つを見た(ノ_-;)ハア…
【読んだ本】
久保田淳&平田喜信(校注)『新日本古典文学大系8 後拾遺和歌集』(岩波書店,1994)所蔵本
久保田淳&平田喜信(校注)『後拾遺和歌集』(岩波文庫,2019)所蔵本
祭主輔親(伊勢大輔タンの父である大中臣輔親)の歌を藤本一恵(全訳注)『後拾遺和歌集(四)』
(講談社学術文庫,1983)の訳で引く(⌒~⌒)
桂なる所に人々まかりて歌よみて、又来んといひてのちに、かの桂にはまひらで、
月の輪といふ所に人々まかりあひて、桂をあらためてきたるよしよみ侍りけるに、
かはらけとりて
さきの日に桂の宿を見しゆゑはけふ月の輪にくべきなりけり
桂という所に人々が行って歌を詠んで、また来るといってのちに、
かの桂には行かないで、月の輪という所に人々が行きあって、
桂をやめて月の輪に来たという趣きを詠みましたので、
酒杯をとって(詠んだ歌)。
きのう桂の住まいを見たわけは、(気がついてみると、月の桂というように、
桂に縁のある)月の輪という所に今日来るはずだったからなのだなあ。
久保田淳&平田喜信(校注)『新日本古典文学大系8 後拾遺和歌集』(岩波書店,1994)も久保田淳&
平田喜信(校注)『後拾遺和歌集』(岩波文庫,2019)も、注に次のように記されていて不審(@_@;)
月の輪といふ所 山城国の地名。難後拾遺によれば、清原元輔の家があったという。
最後の一文、ナニコレ!?( ̄◇ ̄;) この歌との関係が不明なんだが、もしかして余談とか(@_@;)
だけど、久保田淳&平田喜信の新体系本の脚注には次の「参考事項」(昨日指摘したけど、久保田淳
&平田喜信の文庫本には載っていない!)も記されていた( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚
名所に准ずる里の歌。難後拾遺にこの歌のよまれた事情について、作者輔親からの
聞書を記す。・・・この歌は今昔物語集二十四ノ五十三・祭主大中臣輔親郭公読和歌語
にも見える。
阪倉篤義&本田義憲&川端善明(校注)『新潮日本古典集成 今昔物語集 本朝世俗部一』(新潮社,
1978)を披いたら、頭注は「月の輪」を次のように解説していたC= (-。- ) フゥー
京都市東山区。東福寺から泉涌寺にかけての辺。『難後拾遺』によると、
輔親らは月の輪にあった清原元輔の家を訪れたのである。
ともに『難後拾遺』に依拠しながら、久保田淳&平田喜信は「清原元輔の家があった」とだけ記し、
阪倉篤義らはその「月の輪にあった清原元輔の家を訪れた」とするが、正しいのはどっちだ( ̄◇ ̄;)
孫引きになっちゃうけど、藤原清輔の歌学書『袋草紙』が『難後拾遺』の当該件を引いているので、
小沢正夫&後藤重郎&島津忠夫&樋口芳麻呂『袋草紙注釈 上』(塙書房,1974)の訳を引く( ̄∇ ̄)
・・・/源経信の『難後拾遺』にいう、「大中臣輔親が語ったのは『かつて父の能宣の
桂の家に人々が集まり、その翌日清原元輔の月の輪という所の家に私もその人たちと
行きましたところ、私に盃を受けて歌を詠めといわれました。父は私には詠めまいと
申しましたが、元輔がさあ、さあなどと申しますので、私はいやおうなしに盃を取って、
こう詠みました。
───昨日桂の里に集まったのは、今日月の輪に来る準備であり、今日の会こそ
本番なのであります。
父も内心では私の詠歌がどうであろうと心配しておりましたが、そんなに下手に詠みは
しなかったといってくれました。私は当時蔵人所の衆だったので、特に歌を所望された
のです』ということであった。」
源経信は『難後拾遺』で、「『後拾遺集』の詞書は不十分であると非難している」(藤本・前掲書)
ようだけど、久保田淳&平田喜信の注釈に対しても、「不十分であると非難」しそうだよねぇ(^_^;)
・岩波文庫化した『後拾遺和歌集』、原本の新日本古典文学大系本と比較対照して問題指摘ヾ(`◇´)ノ
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2019-09-29
・伊勢大輔タンの父である大中臣輔親も道長に促され即興で秀歌を詠んだという血は争えない話(⌒~⌒)
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2019-03-03
・中宮彰子が最終兵器の伊勢大輔タンに「アレを取れ!」と出撃命令キタ━━━━(゚д゚;)━━━━!!
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2019-01-10
・彰子からの出撃命令を受け、伊勢大輔タン、こっそり女院に侵入した女房たちを見事撃墜v( ̄∇ ̄)ニヤッ
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2019-04-12
・優れた歌人輩出の大中臣家の末なので伊勢大輔タンの孫娘に御指名キタ━━━━(゚д゚;)━━━━!!
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2019-05-26
・伊勢大輔タン「いにしへの」の解釈で苑子タンを始め馬鹿が多すぎるヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2019-01-16
・エガちゃんじゃないが、伊勢大輔タンは確実に伝説を創り、生ける伝説だったという話ヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2019-05-19
・少なくとも70代前半にはなっていたはずも老いてなお歌を召されるほど活躍していた伊勢大輔タン(^^)
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2019-06-07
・伊勢大輔タンの容貌を褒めつつ、その欠点を論うことも決して忘れない紫式部の性格の悪いこと(^_^;)
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2019-07-16
・そんな紫式部にも「気に入られるような、つつましく素直で、人なつこい人だった」伊勢大輔タン(^^)
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2019-06-13
落ちちゃうのをセロテープで補強して使い続ける自分の性格にゴミ屋敷化の原因の一つを見た(ノ_-;)ハア…
【読んだ本】
久保田淳&平田喜信(校注)『新日本古典文学大系8 後拾遺和歌集』(岩波書店,1994)所蔵本
久保田淳&平田喜信(校注)『後拾遺和歌集』(岩波文庫,2019)所蔵本
祭主輔親(伊勢大輔タンの父である大中臣輔親)の歌を藤本一恵(全訳注)『後拾遺和歌集(四)』
(講談社学術文庫,1983)の訳で引く(⌒~⌒)
桂なる所に人々まかりて歌よみて、又来んといひてのちに、かの桂にはまひらで、
月の輪といふ所に人々まかりあひて、桂をあらためてきたるよしよみ侍りけるに、
かはらけとりて
さきの日に桂の宿を見しゆゑはけふ月の輪にくべきなりけり
桂という所に人々が行って歌を詠んで、また来るといってのちに、
かの桂には行かないで、月の輪という所に人々が行きあって、
桂をやめて月の輪に来たという趣きを詠みましたので、
酒杯をとって(詠んだ歌)。
きのう桂の住まいを見たわけは、(気がついてみると、月の桂というように、
桂に縁のある)月の輪という所に今日来るはずだったからなのだなあ。
久保田淳&平田喜信(校注)『新日本古典文学大系8 後拾遺和歌集』(岩波書店,1994)も久保田淳&
平田喜信(校注)『後拾遺和歌集』(岩波文庫,2019)も、注に次のように記されていて不審(@_@;)
月の輪といふ所 山城国の地名。難後拾遺によれば、清原元輔の家があったという。
最後の一文、ナニコレ!?( ̄◇ ̄;) この歌との関係が不明なんだが、もしかして余談とか(@_@;)
だけど、久保田淳&平田喜信の新体系本の脚注には次の「参考事項」(昨日指摘したけど、久保田淳
&平田喜信の文庫本には載っていない!)も記されていた( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚
名所に准ずる里の歌。難後拾遺にこの歌のよまれた事情について、作者輔親からの
聞書を記す。・・・この歌は今昔物語集二十四ノ五十三・祭主大中臣輔親郭公読和歌語
にも見える。
阪倉篤義&本田義憲&川端善明(校注)『新潮日本古典集成 今昔物語集 本朝世俗部一』(新潮社,
1978)を披いたら、頭注は「月の輪」を次のように解説していたC= (-。- ) フゥー
京都市東山区。東福寺から泉涌寺にかけての辺。『難後拾遺』によると、
輔親らは月の輪にあった清原元輔の家を訪れたのである。
ともに『難後拾遺』に依拠しながら、久保田淳&平田喜信は「清原元輔の家があった」とだけ記し、
阪倉篤義らはその「月の輪にあった清原元輔の家を訪れた」とするが、正しいのはどっちだ( ̄◇ ̄;)
孫引きになっちゃうけど、藤原清輔の歌学書『袋草紙』が『難後拾遺』の当該件を引いているので、
小沢正夫&後藤重郎&島津忠夫&樋口芳麻呂『袋草紙注釈 上』(塙書房,1974)の訳を引く( ̄∇ ̄)
・・・/源経信の『難後拾遺』にいう、「大中臣輔親が語ったのは『かつて父の能宣の
桂の家に人々が集まり、その翌日清原元輔の月の輪という所の家に私もその人たちと
行きましたところ、私に盃を受けて歌を詠めといわれました。父は私には詠めまいと
申しましたが、元輔がさあ、さあなどと申しますので、私はいやおうなしに盃を取って、
こう詠みました。
───昨日桂の里に集まったのは、今日月の輪に来る準備であり、今日の会こそ
本番なのであります。
父も内心では私の詠歌がどうであろうと心配しておりましたが、そんなに下手に詠みは
しなかったといってくれました。私は当時蔵人所の衆だったので、特に歌を所望された
のです』ということであった。」
源経信は『難後拾遺』で、「『後拾遺集』の詞書は不十分であると非難している」(藤本・前掲書)
ようだけど、久保田淳&平田喜信の注釈に対しても、「不十分であると非難」しそうだよねぇ(^_^;)
・岩波文庫化した『後拾遺和歌集』、原本の新日本古典文学大系本と比較対照して問題指摘ヾ(`◇´)ノ
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2019-09-29
・伊勢大輔タンの父である大中臣輔親も道長に促され即興で秀歌を詠んだという血は争えない話(⌒~⌒)
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2019-03-03
・中宮彰子が最終兵器の伊勢大輔タンに「アレを取れ!」と出撃命令キタ━━━━(゚д゚;)━━━━!!
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2019-01-10
・彰子からの出撃命令を受け、伊勢大輔タン、こっそり女院に侵入した女房たちを見事撃墜v( ̄∇ ̄)ニヤッ
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2019-04-12
・優れた歌人輩出の大中臣家の末なので伊勢大輔タンの孫娘に御指名キタ━━━━(゚д゚;)━━━━!!
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2019-05-26
・伊勢大輔タン「いにしへの」の解釈で苑子タンを始め馬鹿が多すぎるヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2019-01-16
・エガちゃんじゃないが、伊勢大輔タンは確実に伝説を創り、生ける伝説だったという話ヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2019-05-19
・少なくとも70代前半にはなっていたはずも老いてなお歌を召されるほど活躍していた伊勢大輔タン(^^)
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2019-06-07
・伊勢大輔タンの容貌を褒めつつ、その欠点を論うことも決して忘れない紫式部の性格の悪いこと(^_^;)
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2019-07-16
・そんな紫式部にも「気に入られるような、つつましく素直で、人なつこい人だった」伊勢大輔タン(^^)
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2019-06-13