依然として最下位だが「美しすぎる女子プロ野球選手」加藤優もオリ姫なんだぜオホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)
今日も34度((;゚Д゚)ヒィィィ! 涼しくならないとバカチン連発だぞ(ノ`m´)ノ ~┻┻ (/o\) ミドリン ヤメテー!!
【読んだ本】
小町谷照彦『王朝の歌人7 藤原公任』(集英社,1985)所蔵本
藤原公任の『百人一首』の歌は、『千載和歌集』だけでなく、初句は異なるけど『拾遺和歌集』にも
入ってて、小町谷照彦(校注)『新日本古典文学大系7 拾遺和歌集』(岩波書店,1990)から引く(^^)
大学寺に人人あまたまかりたりけるに、古き滝を詠み侍りける
滝の糸は絶えて久しく成りぬれど名こそ流て猶聞えけれ
小町谷照彦は同書の脚注で詞書に出てくる「大学寺」を次のように解説してて理解に苦しむ(@_@;)
大覚寺。嵯峨天皇の御所があった所。その滝殿は景勝を誇ったが、この頃は既に無かった。
「滝殿」は「この頃は既に無かった」としてるが、藤原公任の家集に入る同歌は犬養廉&後藤祥子&
平野由紀子(校注)『新日本古典文学大系28 平安私家集』(岩波書店,1994)所収の『公任集』では
次の通り(⌒~⌒)
大殿のまだ所所におはせし時、人人具して紅葉見にありき給ひしに、
嵯峨の滝殿にて
滝の音は絶て久しく成ぬれど名こそ流て猶聞えけれ
詞書に「滝殿にて」とあるように「滝殿」は当時まだあったのであるv( ̄∇ ̄)ニヤッ 勿論、同じ歌でも
家集や勅撰集で詞書その他の理由から異なる解釈がなされることはある〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
ただ、この歌に関し「滝殿」は「この頃は既に無かった」と解釈する根拠は無さそうC= (-。- ) フゥー
先ず藤原公任と同時代人である赤染衛門の歌が『後拾遺和歌集』に入っていて、久保田淳&平田喜信
(校注)『新日本古典文学大系8 後拾遺和歌集』(岩波書店,1994)から引く( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚
大学寺の滝殿を見てよみ侍りける
あせにける いまだにかゝり 滝つ瀬の はやくぞ人は 見るべかりける
「滝殿を見て」詠んだと詞書にあるんだから、やはり「滝殿」は当時まだあったということ(⌒~⌒)
石田吉貞『百人一首評解』(有精堂出版,1956)も赤染衛門の歌「・・・があるから、公任の時代にも
滝殿の残っていたことが知られる。」としてるv( ̄∇ ̄)ニヤッ ただし、赤染衛門が詠んだ後に、滝殿が
無くなってしまい、その後に藤原公任が詠んだ可能性も全く無いわけではない(^_^;)
決定的なのは、この歌を藤原公任が詠んだ際の目撃証言が残っていることヤッタネ!!(v゚ー゚)ハ(゚▽゚v)ィェーィ♪
藤原行成の日記『権記』の長保元年(999年)9月12日の記述で、倉本一宏(全現代語訳)『藤原行成
「権記」(上)』(講談社学術文庫,2011)235~236頁の現代語訳を引くオホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ!
十二日。 西山に遊覧/藤原公任、和歌を詠む
早朝、中将と同車して左府の許に参った。左府が遊覧を行なった。一昨日、左右金吾
(藤原誠信・藤原公任)・源三相公(時中)、及び私・右中丞(道方)が相談して、
この事を行なった。各々、餌袋と破子を準備した。先ず大覚寺・滝殿・栖霞観に到った。
次に丞相(道長)は騎馬した。以下はこれに従った。大堰河の畔に到った。式部権大輔
(匡衡)が丞相の命によって、和歌の題を献上した。云ったことには、「処々に紅葉を
訪ねる」と。次に相府(道長)の馬場に帰って、和歌を詠んだ。初めは滝殿に到った和歌
であった。右金吾(公任)が詠んで云ったことには、「滝の音の絶へて久しく成りぬれど
名こそ流れて猶ほ聞こえけれ(滝の音は絶えて久しくなったけれども、名だけが流れて
まだ聞こえている)」と。
御覧の通り、「先ず大覚寺・滝殿・栖霞観に到った」「初めは滝殿に到った和歌であった」とあって、
「滝殿」は当時まだあったのであるオホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)
さてさて、長~い長~い長~い長~い前置きはここまでということで、ここからが今日の本題(^_^;)
藤原公任の同歌については、当たり前のことだが、本書も取り上げていて、次の通りである(@_@;)
・・・/九月十二日、道長が嵯峨に遊覧し、公任も同行した。『百人一首』で有名な、
滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞えけれ
が詠まれたのは、このときである。『権記』に、
早朝中将ト同車シ、左府(道長)ニ詣ヅ。一昨、左・右金吾・源三相公
(誠信・公任・俊賢)、幷ビニ予、右中丞。此ノ事相約有リ。各、餌袋・破子
(弁当箱)ヲ調ヘ、先ヅ大覚寺滝殿・栖霞殿ニ到ル。次デ丞相騎馬、以下之ニ従ヒ、
大堰河畔ニ到ル。式部権大輔、丞相ノ命ニ依ツテ、和歌ヲ上[たてまつ]ル。
題ニ云ハク、処々ノ紅葉ヲ尋ヌ。次デ相府ノ馬場ニ帰リ、和歌ヲ詠ム。
初メ滝殿ニ到リ、右金吾詠ミテ云ハク、
滝音能 絶弖久 成奴礼東 名社流弖 猶聞計礼
とある。・・・[『小右記』や『御堂関白記』の各記述の紹介は省略]・・・/
大覚寺は嵯峨天皇の御所のあったところで、貞観十八年(八七六)二月十五日、
淳和太皇太后正子の御願で、離宮から寺院になった(『日本紀略』)。公任の時代には
往時の面影はなく、滝殿もなかった。滝の音は絶えたが、名はとどまり今もなお
聞きつたえられている、という時の推移による栄枯盛衰を、歴史意識によって
詠嘆したものだが、「滝」にまつわる「音」「絶ゆ」「流る」「聞ゆ」という
聴覚的映像が、タ音ナ音の反復による頭韻にみちびかれて、よどみなくつづられ、
公任の説く優美平淡の余情美を具現している歌といえよう。/・・・
藤原行成の日記『権記』の「先ヅ大覚寺滝殿・栖霞殿ニ到ル」「初メ滝殿ニ到リ」という記述を引用
しながら「滝殿もなかった」とするのは頭おかしいだろ( ̄◇ ̄;) 編集者の目も節穴かよヾ(`◇´)ノ
・運悪く歴史的瞬間に立ち会えない人もいれば、目撃し貴重な証言を残す人もいるのさC= (-。- ) フゥー
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2019-05-03
・「滝殿をしのんで詠まれた」だなんて、安東次男も少しは調べて書けヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2019-05-04
・和歌、漢詩、管絃の全てに秀でてた大納言の藤原公任、実はゾンビまで造っていたヒィィィィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2019-03-08
今日も34度((;゚Д゚)ヒィィィ! 涼しくならないとバカチン連発だぞ(ノ`m´)ノ ~┻┻ (/o\) ミドリン ヤメテー!!
【読んだ本】
小町谷照彦『王朝の歌人7 藤原公任』(集英社,1985)所蔵本
藤原公任の『百人一首』の歌は、『千載和歌集』だけでなく、初句は異なるけど『拾遺和歌集』にも
入ってて、小町谷照彦(校注)『新日本古典文学大系7 拾遺和歌集』(岩波書店,1990)から引く(^^)
大学寺に人人あまたまかりたりけるに、古き滝を詠み侍りける
滝の糸は絶えて久しく成りぬれど名こそ流て猶聞えけれ
小町谷照彦は同書の脚注で詞書に出てくる「大学寺」を次のように解説してて理解に苦しむ(@_@;)
大覚寺。嵯峨天皇の御所があった所。その滝殿は景勝を誇ったが、この頃は既に無かった。
「滝殿」は「この頃は既に無かった」としてるが、藤原公任の家集に入る同歌は犬養廉&後藤祥子&
平野由紀子(校注)『新日本古典文学大系28 平安私家集』(岩波書店,1994)所収の『公任集』では
次の通り(⌒~⌒)
大殿のまだ所所におはせし時、人人具して紅葉見にありき給ひしに、
嵯峨の滝殿にて
滝の音は絶て久しく成ぬれど名こそ流て猶聞えけれ
詞書に「滝殿にて」とあるように「滝殿」は当時まだあったのであるv( ̄∇ ̄)ニヤッ 勿論、同じ歌でも
家集や勅撰集で詞書その他の理由から異なる解釈がなされることはある〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
ただ、この歌に関し「滝殿」は「この頃は既に無かった」と解釈する根拠は無さそうC= (-。- ) フゥー
先ず藤原公任と同時代人である赤染衛門の歌が『後拾遺和歌集』に入っていて、久保田淳&平田喜信
(校注)『新日本古典文学大系8 後拾遺和歌集』(岩波書店,1994)から引く( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚
大学寺の滝殿を見てよみ侍りける
あせにける いまだにかゝり 滝つ瀬の はやくぞ人は 見るべかりける
「滝殿を見て」詠んだと詞書にあるんだから、やはり「滝殿」は当時まだあったということ(⌒~⌒)
石田吉貞『百人一首評解』(有精堂出版,1956)も赤染衛門の歌「・・・があるから、公任の時代にも
滝殿の残っていたことが知られる。」としてるv( ̄∇ ̄)ニヤッ ただし、赤染衛門が詠んだ後に、滝殿が
無くなってしまい、その後に藤原公任が詠んだ可能性も全く無いわけではない(^_^;)
決定的なのは、この歌を藤原公任が詠んだ際の目撃証言が残っていることヤッタネ!!(v゚ー゚)ハ(゚▽゚v)ィェーィ♪
藤原行成の日記『権記』の長保元年(999年)9月12日の記述で、倉本一宏(全現代語訳)『藤原行成
「権記」(上)』(講談社学術文庫,2011)235~236頁の現代語訳を引くオホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ!
十二日。 西山に遊覧/藤原公任、和歌を詠む
早朝、中将と同車して左府の許に参った。左府が遊覧を行なった。一昨日、左右金吾
(藤原誠信・藤原公任)・源三相公(時中)、及び私・右中丞(道方)が相談して、
この事を行なった。各々、餌袋と破子を準備した。先ず大覚寺・滝殿・栖霞観に到った。
次に丞相(道長)は騎馬した。以下はこれに従った。大堰河の畔に到った。式部権大輔
(匡衡)が丞相の命によって、和歌の題を献上した。云ったことには、「処々に紅葉を
訪ねる」と。次に相府(道長)の馬場に帰って、和歌を詠んだ。初めは滝殿に到った和歌
であった。右金吾(公任)が詠んで云ったことには、「滝の音の絶へて久しく成りぬれど
名こそ流れて猶ほ聞こえけれ(滝の音は絶えて久しくなったけれども、名だけが流れて
まだ聞こえている)」と。
御覧の通り、「先ず大覚寺・滝殿・栖霞観に到った」「初めは滝殿に到った和歌であった」とあって、
「滝殿」は当時まだあったのであるオホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)
さてさて、長~い長~い長~い長~い前置きはここまでということで、ここからが今日の本題(^_^;)
藤原公任の同歌については、当たり前のことだが、本書も取り上げていて、次の通りである(@_@;)
・・・/九月十二日、道長が嵯峨に遊覧し、公任も同行した。『百人一首』で有名な、
滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞えけれ
が詠まれたのは、このときである。『権記』に、
早朝中将ト同車シ、左府(道長)ニ詣ヅ。一昨、左・右金吾・源三相公
(誠信・公任・俊賢)、幷ビニ予、右中丞。此ノ事相約有リ。各、餌袋・破子
(弁当箱)ヲ調ヘ、先ヅ大覚寺滝殿・栖霞殿ニ到ル。次デ丞相騎馬、以下之ニ従ヒ、
大堰河畔ニ到ル。式部権大輔、丞相ノ命ニ依ツテ、和歌ヲ上[たてまつ]ル。
題ニ云ハク、処々ノ紅葉ヲ尋ヌ。次デ相府ノ馬場ニ帰リ、和歌ヲ詠ム。
初メ滝殿ニ到リ、右金吾詠ミテ云ハク、
滝音能 絶弖久 成奴礼東 名社流弖 猶聞計礼
とある。・・・[『小右記』や『御堂関白記』の各記述の紹介は省略]・・・/
大覚寺は嵯峨天皇の御所のあったところで、貞観十八年(八七六)二月十五日、
淳和太皇太后正子の御願で、離宮から寺院になった(『日本紀略』)。公任の時代には
往時の面影はなく、滝殿もなかった。滝の音は絶えたが、名はとどまり今もなお
聞きつたえられている、という時の推移による栄枯盛衰を、歴史意識によって
詠嘆したものだが、「滝」にまつわる「音」「絶ゆ」「流る」「聞ゆ」という
聴覚的映像が、タ音ナ音の反復による頭韻にみちびかれて、よどみなくつづられ、
公任の説く優美平淡の余情美を具現している歌といえよう。/・・・
藤原行成の日記『権記』の「先ヅ大覚寺滝殿・栖霞殿ニ到ル」「初メ滝殿ニ到リ」という記述を引用
しながら「滝殿もなかった」とするのは頭おかしいだろ( ̄◇ ̄;) 編集者の目も節穴かよヾ(`◇´)ノ
・運悪く歴史的瞬間に立ち会えない人もいれば、目撃し貴重な証言を残す人もいるのさC= (-。- ) フゥー
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・「滝殿をしのんで詠まれた」だなんて、安東次男も少しは調べて書けヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
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・和歌、漢詩、管絃の全てに秀でてた大納言の藤原公任、実はゾンビまで造っていたヒィィィィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ
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