宝物?もちろん「セミの抜け殻」よ(*'ε`*)チゥ♡と不二子そっくりの声で言われちゃうと集める気に(^_^;)
YouTube「ルパン三世の不二子ちゃんが絶対言わないセリフ2」の話ね(〃'∇'〃) 「やだ、ルパン、この
おっぱい本物だと思ってたの?」や第1弾の「ルパン先に行ってて!私自転車で行くから」も笑える(^_^;)

【読んだ本】

杉本苑子『杉本苑子の京都』(旺文社文庫,1985)所蔵本

ふむふむと読んでたら最後にキタ━━━゚+.ヽ(≧▽≦)ノ.+゚━━━!!!!キタヨキタヨヽ(゚∀゚=゚∀゚)ノキチャッタヨ-!!!!!!

    ・・・/[菅原]道真のほうがあべこべにおとしいれられ、九州の大宰府に左遷されて、
    悲惨な死をとげる。宇多上皇がこのとき、宮門に駆けつけ、道真の左遷をくいとめるべく
    中へはいろうとされたのに、門兵がこばんで開けなかった。そのため終日、
    門前に立ちつくされ、ついにあきらめて帰られた話が、君臣の愛情を語る美談として
    のこされている。/仔細に調べると、しかし道真に「大宰権帥に貶す」との決定が
    くだされたのは、昌泰四年(延喜元年)一月二十五日、京都出発が二月一日、そして
    宇多上皇は出発直前の一月三十日に、宮門へ駆けつけておられるのである。/
    少々おかしい。五日間あれば阻止の手はいくらでも打てたのに、貴重なそのあいだ、
    沈黙していて、まに合わなくなったぎりぎりの前日、やっと行動を起こされたのはなぜか。
    /宇多上皇が、道真を裏切ったとまではいうまい。ただ、[藤原]時平の対抗馬として
    重用してみたもののやはり、うまくいかなかった。時平の反撃のほうが強烈だったと
    知った時点で、上皇が手を引かれたとは言えると思う。失脚し、役に立たなくなった道真は、
    捨てられたのである。宮門の外に立ちつくされたジェスチュアは、せめて上皇の、
    最後のはなむけであったのだろう。/それを証拠に、以後、抑圧どころか手の裏返して、
    上皇は藤原氏と仲よくしはじめる。敵視するよりも協調し、共栄するほうが有利と見て、
    すばやく戦法を変えられたのだ。時に宇多上皇、三十五歳。おん子の醍醐天皇、十七歳……。
    /時平の妹で、すでに醍醐帝とのあいだに保明親王を生んでいた穏子は、ただちに
    女御に昇り、二歳の保明親王は皇太子に冊立される。むつましくそれからは、宇多上皇と
    時平のつき合いが始まった。大井川の川遊び、嵯峨野の若菜つみ……。詩歌管絃の御遊にも
    寺社詣でにも、上皇のお車のわきに時平が供奉しないときはなかった。上皇側の戦術転換を、
    時平もまた、大いに歓迎したのである。/捨てられたばかりか、道真は忘れられた。
    彼のほうは、でも上皇の、かつての優遇を、けっして忘れるどころではなかった。
    重く用いられたことを「けっくは、利用するため」とも取らずに、いただいた衣類に
    上皇の移り香をなつかしんで、

      恩賜の御衣、今ここにあり
      奉持して毎日、余香を拝す

    と感涙にむせびながら、延喜三年、崩れかかった陋屋の中でほとんどみとる者もなく、
    餓死にひとしい死をとげたのだ。/・・・

「恩賜の御衣」は醍醐天皇からのゆえ「上皇の移り香」なんかねーだろヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!

[追記190810]

目崎徳衛「菅原道真の謎」『王朝のみやび』(吉川弘文館歴史文化セレクション,2007)所収の冒頭(^^)

    菅原道真は戦前忠臣の典型として崇拝されていた。その当時、小学生にも
    親しまれていたのは次の詩で、年輩の者には御衣を両手に捧げている
    彼の束帯姿の挿絵が、なつかしいことであろう。

         九月十日

      去年の今夜清涼に侍し
      秋思の誌篇、独り腸を断つ
      恩賜の御衣、今此に在り
      捧持して、毎日余香を拝す

    この詩は、道真が延喜元年(九〇一)正月大宰府に配流されたその秋のこと、
    昨年の九月十日重陽の節の後朝の詩宴に侍して、「秋思」という題で作った詩が
    醍醐天皇の御感にあずかり、宴終わった夕べに御衣を賜わった感激を思い起こして
    詠ったのである。/・・・

「恩賜の御衣」が醍醐天皇からであることなど菅原道真について少しでも知っている者には常識だし、
まして苑子タンは戦中に教育を受けているのだから、上述のようなミスは全く理解に苦しむ(-ω-、)

「菅原道真の謎」は紹介済で(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2018-12-13 )、

    ・・・それより二年前の昌泰元年(八九八)の日も同じ九月十日、道真は
    宇多上皇の御所朱雀院でもよおされた詩宴で、題もよく似た「秋思寒松に入る」
    という詩を、上皇の命に応じて作った。・・・道真は宇多上皇と文字通り
    君臣水魚の交わりを結んだ腹心で、両者の関係は醍醐天皇と道真との関係など
    遠く及ばぬ、切っても切れない仲である。・・・/こういう間柄の上皇と道真なのに、
    九月十日を迎えて配所[=大宰府]の道真が回顧したのは宇多上皇の詩宴ではなく、
    醍醐天皇の詩宴であった。これが私にはいぶかしいのである。・・・
    大宰府配流後の詩を集めた「菅家後集」には、驚いたことに、四、五十編の作品の中に
    宇多上皇に関係するものは唯の一編も見当たらないのである。・・・

とあり、もし目崎徳衛が正しければ、苑子タンの上述の論旨は、そもそも成り立ちえないもの(@_@;)