ネット掲示板「5ちゃんねる」(旧・2ちゃんねる)で、欠かすことなく毎朝チェックしているスレッド
があるんだけど(「【孔丘】宮城谷昌光を語ろう【劉邦】十巻」)、丸2週間も書き込みが無い(@_@;)
書き込んだことの無い小生だが、もし現実の世界だったら、沈黙に耐えられず、発言しちゃいそう(^_^;)
7日に行方不明になったことに気付いたケータイのアクセサリー(緑色の象さん)が見付かる(〃'∇'〃)
【読んだ本】
杉本苑子『おくのほそ道 人物紀行』(文春新書,2005)所蔵本
苑子タン、また調べずに書いてるよ(ノ_-;)トホホ… ま、別に苑子タンに限らないけどねC= (-。- ) フゥー
・・・芭蕉はこの[殺生石の]文章につづけて、かつて西行が歌を詠じ、のちに謡曲にも
作られた柳の説明に筆を移している。一句添えたりもして、字数は殺生石のくだりよりも、
やや多い。
又、清水ながるるの柳は、蘆野の里にありて、田の畔[くろ]に残る。此所の郡守
戸部[こほう]某の、「この柳みせばや」など、折々にの給ひ聞こえ給ふを、
いづくのほどにやと思ひしを、今日この柳のかげにこそ立ちより侍つれ。
田一枚植て立去る柳かな
・・・
「清水ながるるの柳」というのも、むかし西行が、鳥羽院の襖に描かれていた柳の絵に、
道のべに清水流るる柳かげしばしとてこそ立ち止まりつれ
と書き添えた故事にちなんだ名で、西行が実際に、みちのくの蘆野の地を訪れて詠んだ
わけではない。/・・・
久保田淳『旅と草庵の歌人 西行の世界』(日本放送出版協会新コンパクト・シリーズ,1988)を引く(^^)
・・・/また、同じく『新古今集』巻第三夏歌に載っている。
道のべに清水ながるる柳陰しばしとてこそ立ち止まりつれ
という歌は、同集では「題しらず」、すなわち作歌事情未詳という扱いであるが、
中世後期の能の作者は、この柳を陸奥の白河の関付近の柳の古木であるとして
「遊行柳」という曲を作り、芭蕉もまた『おくのほそ道』の旅で
その柳と伝えられるものを尋ねて、一句を吟じた。
・・・
この柳も西行の和歌のゆえに歌枕となっていることが知られる。/けれども、
この歌については、『西行物語』は、大治二年(一一二七)鳥羽殿に御幸した鳥羽院が
御障子絵(宮中の襖の絵)の歌として歌人達に詠歌させた際、出家以前の西行
(佐藤義清)が「清水流るる柳の陰に旅人の休む絵を描きたるところに」(久保家本
『西行物語絵巻』)、または「清水の流れたる柳の陰に水をむすぶ女房を描きたりければ」
(文明本『西行物語』)、詠んだ歌である、すなわち題詠の一種である障子歌として
詠まれたものであると語る。大治二年に西行は十歳である。一緒に詠んだという歌人の中には
既に故人となっていた人の名も見られる。『西行物語』の記述内容に信を置きがたいことは
このあたりの記述からも明らかであるが、・・・
桑原博史(全訳注)『西行物語』(講談社学術文庫,1981)も同様の指摘〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
ただ、「西行が実際に、みちのくの蘆野の地を訪れて[この柳の下で]詠んだ」という話も、「・・・
事実としては疑う余地は多分にあります。」と井本農一『芭蕉入門』(講談社学術文庫,1977)は評し、
久保田淳も「・・・『金色夜叉』のお宮の松が熱海の海岸に存在するのにも似・・・」ると否定的(^_^;)
があるんだけど(「【孔丘】宮城谷昌光を語ろう【劉邦】十巻」)、丸2週間も書き込みが無い(@_@;)
書き込んだことの無い小生だが、もし現実の世界だったら、沈黙に耐えられず、発言しちゃいそう(^_^;)
7日に行方不明になったことに気付いたケータイのアクセサリー(緑色の象さん)が見付かる(〃'∇'〃)
【読んだ本】
杉本苑子『おくのほそ道 人物紀行』(文春新書,2005)所蔵本
苑子タン、また調べずに書いてるよ(ノ_-;)トホホ… ま、別に苑子タンに限らないけどねC= (-。- ) フゥー
・・・芭蕉はこの[殺生石の]文章につづけて、かつて西行が歌を詠じ、のちに謡曲にも
作られた柳の説明に筆を移している。一句添えたりもして、字数は殺生石のくだりよりも、
やや多い。
又、清水ながるるの柳は、蘆野の里にありて、田の畔[くろ]に残る。此所の郡守
戸部[こほう]某の、「この柳みせばや」など、折々にの給ひ聞こえ給ふを、
いづくのほどにやと思ひしを、今日この柳のかげにこそ立ちより侍つれ。
田一枚植て立去る柳かな
・・・
「清水ながるるの柳」というのも、むかし西行が、鳥羽院の襖に描かれていた柳の絵に、
道のべに清水流るる柳かげしばしとてこそ立ち止まりつれ
と書き添えた故事にちなんだ名で、西行が実際に、みちのくの蘆野の地を訪れて詠んだ
わけではない。/・・・
久保田淳『旅と草庵の歌人 西行の世界』(日本放送出版協会新コンパクト・シリーズ,1988)を引く(^^)
・・・/また、同じく『新古今集』巻第三夏歌に載っている。
道のべに清水ながるる柳陰しばしとてこそ立ち止まりつれ
という歌は、同集では「題しらず」、すなわち作歌事情未詳という扱いであるが、
中世後期の能の作者は、この柳を陸奥の白河の関付近の柳の古木であるとして
「遊行柳」という曲を作り、芭蕉もまた『おくのほそ道』の旅で
その柳と伝えられるものを尋ねて、一句を吟じた。
・・・
この柳も西行の和歌のゆえに歌枕となっていることが知られる。/けれども、
この歌については、『西行物語』は、大治二年(一一二七)鳥羽殿に御幸した鳥羽院が
御障子絵(宮中の襖の絵)の歌として歌人達に詠歌させた際、出家以前の西行
(佐藤義清)が「清水流るる柳の陰に旅人の休む絵を描きたるところに」(久保家本
『西行物語絵巻』)、または「清水の流れたる柳の陰に水をむすぶ女房を描きたりければ」
(文明本『西行物語』)、詠んだ歌である、すなわち題詠の一種である障子歌として
詠まれたものであると語る。大治二年に西行は十歳である。一緒に詠んだという歌人の中には
既に故人となっていた人の名も見られる。『西行物語』の記述内容に信を置きがたいことは
このあたりの記述からも明らかであるが、・・・
桑原博史(全訳注)『西行物語』(講談社学術文庫,1981)も同様の指摘〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
ただ、「西行が実際に、みちのくの蘆野の地を訪れて[この柳の下で]詠んだ」という話も、「・・・
事実としては疑う余地は多分にあります。」と井本農一『芭蕉入門』(講談社学術文庫,1977)は評し、
久保田淳も「・・・『金色夜叉』のお宮の松が熱海の海岸に存在するのにも似・・・」ると否定的(^_^;)