姿を昨日は丸一日見かけなかったから、親に見捨てられちゃったのかなぁ~と心配しながら寝たところ、
朝の寒さ&雨に、ヤバいかも・・・と玄関前のモミジを見に行くと、ハトさんが居て雛はお腹の下(^_^;)
雨の止んだ午後は雛だけに(^_^;) にしても、猫さんの通り道にもなってるのに見付からないとは(゚ロ゚;)
朝9時頃の地震は結構大きかったし、他方で、あまりの寒さに未洗濯で仕舞ってない冬着が活躍(@_@;)
【読んだ本】
石川淳(責任編集)『日本の名著21 本居宣長』(中央公論社,1970)
辞書にはあるけど、使っても「月影」「星影」程度で、〈光〉の意味で「影」は使わないかと(@_@;)
古語だと、例えば、『百人一首』にも入っている藤原顕輔の次の秀歌の「影」は〈光〉の意(〃'∇'〃)
秋風に たなびく雲の たえまより もれいづる月の 影のさやけさ
久保田淳『新潮日本古典集成 新古今和歌集 上』(新潮社,1979)の現代語訳だと、次の通り(⌒~⌒)
秋風に吹かれてたなびいている雲の絶え間から射して出る月の光の何とさやかに
澄んでいることか。
同じく「影」という語を用いてる『新古今和歌集』の藤原家隆の歌を同書の現代語訳とともに引く(^^)
梅が香に 昔をとへば 春の月 こたへぬ影ぞ 袖にうつれる
梅花の薫りに昔のことを尋ねると、花はもとより春の月も答えないが、
その月の光が昔なつかしさに流す涙に濡れた袖に映ったよ。
ちなみに、「梅が香に」をどう解するかは昔からの論点で、「昔をとへば」の対象とし、その問いに
「こたへぬ」というのが上記の解釈だけど、「梅が香に懐旧の情を誘われて」と解釈する説もあって、
久保田淳『新古今和歌集全注釈 一』(角川学芸出版,2011)では、後者の方に改説している(^_^;)
本書所収の野口武彦(訳)『新古今集美濃の家づと(抄)』は、本居宣長による『新古今和歌集』の
注釈書の抄訳だけど、この藤原家隆の歌についての記述(本書249頁)の全文を引く(@_@;)
たいへん優秀な歌である。『伊勢物語』の業平朝臣の「月やあらぬ春や昔の春ならぬ
わが身一つはもとの身にして」という歌の段をもちきたって、業平の気持になって
詠じた歌である。「影ぞ」の「ぞ」に力がある。このような「ぞ」には特に
留意しなければならない。月影が袖にうつるという表現に、昔を恋しがって泣く涙が
ふりかかるという気持をこめている。月が答えないといって梅の香もまた答えないことを
言い得ているあたりは常人の及ぶところではない。一首の意は、恋しい昔のことを
昔に変わらぬ梅の香にたずねても、梅の香は答えず、月も答え顔をしているのに
答えてくれないで、ただその影だけが袖に映っているというのである。
最終行に出てくる「その影」は「その光」か「その姿」と訳した方がすっきり頭に入ると思うな(^_^;)
朝の寒さ&雨に、ヤバいかも・・・と玄関前のモミジを見に行くと、ハトさんが居て雛はお腹の下(^_^;)
雨の止んだ午後は雛だけに(^_^;) にしても、猫さんの通り道にもなってるのに見付からないとは(゚ロ゚;)
朝9時頃の地震は結構大きかったし、他方で、あまりの寒さに未洗濯で仕舞ってない冬着が活躍(@_@;)
【読んだ本】
石川淳(責任編集)『日本の名著21 本居宣長』(中央公論社,1970)
辞書にはあるけど、使っても「月影」「星影」程度で、〈光〉の意味で「影」は使わないかと(@_@;)
古語だと、例えば、『百人一首』にも入っている藤原顕輔の次の秀歌の「影」は〈光〉の意(〃'∇'〃)
秋風に たなびく雲の たえまより もれいづる月の 影のさやけさ
久保田淳『新潮日本古典集成 新古今和歌集 上』(新潮社,1979)の現代語訳だと、次の通り(⌒~⌒)
秋風に吹かれてたなびいている雲の絶え間から射して出る月の光の何とさやかに
澄んでいることか。
同じく「影」という語を用いてる『新古今和歌集』の藤原家隆の歌を同書の現代語訳とともに引く(^^)
梅が香に 昔をとへば 春の月 こたへぬ影ぞ 袖にうつれる
梅花の薫りに昔のことを尋ねると、花はもとより春の月も答えないが、
その月の光が昔なつかしさに流す涙に濡れた袖に映ったよ。
ちなみに、「梅が香に」をどう解するかは昔からの論点で、「昔をとへば」の対象とし、その問いに
「こたへぬ」というのが上記の解釈だけど、「梅が香に懐旧の情を誘われて」と解釈する説もあって、
久保田淳『新古今和歌集全注釈 一』(角川学芸出版,2011)では、後者の方に改説している(^_^;)
本書所収の野口武彦(訳)『新古今集美濃の家づと(抄)』は、本居宣長による『新古今和歌集』の
注釈書の抄訳だけど、この藤原家隆の歌についての記述(本書249頁)の全文を引く(@_@;)
たいへん優秀な歌である。『伊勢物語』の業平朝臣の「月やあらぬ春や昔の春ならぬ
わが身一つはもとの身にして」という歌の段をもちきたって、業平の気持になって
詠じた歌である。「影ぞ」の「ぞ」に力がある。このような「ぞ」には特に
留意しなければならない。月影が袖にうつるという表現に、昔を恋しがって泣く涙が
ふりかかるという気持をこめている。月が答えないといって梅の香もまた答えないことを
言い得ているあたりは常人の及ぶところではない。一首の意は、恋しい昔のことを
昔に変わらぬ梅の香にたずねても、梅の香は答えず、月も答え顔をしているのに
答えてくれないで、ただその影だけが袖に映っているというのである。
最終行に出てくる「その影」は「その光」か「その姿」と訳した方がすっきり頭に入ると思うな(^_^;)