毎回愉しく視聴してるけど、「芸能人格付けチェック」のGACKT様は、やはり仕込みなのかなぁ(´・_・`)
タオルケット2枚で寝てたけど、昨夜は寒すぎて、薄い掛布団の上に毛布を掛けて寝たよヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ

【読んだ本】

池田亀鑑『平安朝の生活と文学』(角川文庫,1964)所蔵本

藤原清輔の歌学書『袋草紙』に載ってる有名な逸話を、小沢正夫&後藤重郎&島津忠夫&樋口芳麻呂
『袋草紙注釈 上』(塙書房,1974)の「通釈」で引く(´・_・`)

    ・・・能因[法師]は[藤原]兼房の車の後に乗っていた時、二条東洞院で
    にわかに下りて数町を歩いて行った。兼房がびっくりしてたずねると、
    能因は「ここは伊勢の御の家の跡である。彼女の家の中庭の枝を結んで
    祈願をこめた松の木が今も残っている。どうして車に乗ってその前を
    過ぎられようか」といって、松のこずえが見える間は車に乗らなかった。・・・

優れた歌人の能因法師が伊勢タンに敬意を払った同逸話は源俊頼の歌論書『俊頼髄脳』にも出ていて、
橋本不美男&有吉保&藤平春男(校注・訳)『新編日本古典文学全集87 歌論集』(小学館,2002)の
橋本不美男の訳で引く(´・_・`)

    ・・・/能因法師は、和歌を話題にする時も、うがいをしてから話し、
    歌書類を見る時も、手を洗ってから書物をとり披見した。これが単に
    その時の思い入れでしているのかと思っていたが、讃岐の前国守兼房という人が、
    能因を牛車の後ろに乗せて他処へ行った時に、ちょうど、二条と東洞院の交わる場所は、
    昔伊勢の家であったが、子日の小松があったのを、先端の枝を結んで植えてあったのが、
    生長してじつに巨大な松の木になっていたが、その木の梢が見えた所で、
    能因が牛車の後ろから、あたりを見廻しながら下りたので、同乗していた兼房の君は
    突然のことでわけがわからず、「何事が起ったのか」と尋ねたところ、
    能因は「あれに見える松の木は、世に名高い歌人伊勢の結び松ではございませんか。
    そのような和歌に因縁のある松をば、どうして牛車に乗ったままで通り過ぎましょうや」
    と答えて、そこから歩いて通り過ぎ、過ぎてからもはるか遠くまで歩き離れて、
    その松の木の梢が隠れてしまうほどの距離になってはじめて、
    牛車に乗ったということだ。・・・

気になったのは、『袋草紙注釈 上』が「兼房の車の後ろに乗っていた時」の「車後」の「語釈」で、
次のように解説していた点(@_@;)

    車のしり。当時の牛車は前に二人後に二人乗ることができ、身分の高い人が前に乗る。

同件、藤岡忠美(校注)『新日本古典文学大系29 袋草紙』(岩波書店,1995)は注を付してない(..)
兼房の方が身分が高いわけだが、「身分の高い人が前に乗る」、そんな単純かしらねC= (-。- ) フゥー

そこで出番となるのが本書で、「乗車の作法」という見出しが付けられた一節を引く( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚

    これらの車すなわち女房車に乗る場合には、他の車に乗る場合と同様に、
    一定の作法があります。車に乗るには、榻[しじ]を置いて後の方から乗り、
    降りる時には、牛を外して、前の方から降ります。榻とは轅[ながえ]を
    載せておく台のことです。一人乗る時には、前の簾に近く、左側に右を向いて
    すわります。二人以上乗る時には、前は右側が上席で、後は左側が上席ということに
    なっています。両側に背を向けて、向かい合ってすわるのです。男と女が乗る時は、
    男は右側、女は左側に乗るのが作法です。

芸術新潮1994年4月号も特集「平安遷都千二百年記念 王朝貴族のホットな生活」で【牛車の乗り降り】
という見出しで、同誌編集部が次のように解説してた〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

    ・・・乗る時は後ろから、降りる時は牛を外して前からだった。あの装束を思うと、
    この方法が理にかなっていたのだろう。乗っている間は横向きに坐り、同乗者がいる間は
    かならず向い合せに坐った。定員は四人で、前方の右と後方の左が上席。男女の場合は
    男が右に乗った。・・・

この作法を覚えておけば、格付けに出題されても純金の元名古屋嬢は無敵よオホホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)

また、降車は前からなら、『俊頼髄脳』の「能因が牛車の後ろから、・・・下りた」のも変(@_@;)
『新編日本古典文学全集87 歌論集』は注を付けてないけど、兼房が「わけがわから」なかったのは、
「突然のこと」だったのに加えて、「能因が車の後ろから、・・・下りた」こともあるのかも(^_^;)