犬がした糞をそのままにしていく飼い主がいて、歩きスマホの人だろうけど踏んだ跡があった(´・_・`)

【読んだ本】

中島輝賢『コレクション日本歌人選023 伊勢』(笠間書院,2011)

この「コレクション日本歌人選」のシリーズ、数巻だけ拾い読みした限りでは、著者は若手研究者で、
院で専門的訓練を受けたはずなのに、素人目にも歌の注釈・鑑賞や歌人の説明に間違いやデタラメが
散見される(-"-) 学界のボスたちが無能な弟子にも業績となるようにと著者に推した結果か(¬。¬ )

犬養廉&後藤祥子&平野由紀子(校注)『新日本古典文学大系28 平安私家集』(岩波書店,1994)所収
の伊勢タンの家集『伊勢集』より、歌番号97~100の歌を詞書とともに引く(´・_・`)

       京極院に、亭子みかど[=宇多上皇]おはしまして、花の宴せさせ給ふに、
       参れとおほせらるれば、見に参れり。池に花散れり

    97 年ごとに花の鏡となる水はちりかゝるをや曇るといふらん

    98 毎春[はるごと]に流[ながる]る水を花と見て折[をら]れぬ浪に袖やぬるらん

       又日[またのひ]

    99 今日までは流れ出でぬを水上の花は昨日や散り果てにけむ

       かへし、季縄
 
    100 桜花ひとさかりなる物なればながれて見えずなるにざるべき

97は詞書に「花の宴」、歌に「花」、98と99の2首にも「花」とあるが、この「花」は全て〈桜の花〉
と解されている(^^) その理由は99の詞書に「又日」=翌日とあるので、99は宇多上皇の「花の宴」の
翌日と解され、99の伊勢の歌への返歌として藤原季縄が詠んだ100の歌に「桜花」とあるから(⌒~⌒)

この『伊勢集』の97と98の2首は、語句と詞書は異なるけど、勅撰集『古今和歌集』の歌番号44と43に
入っている(とりあえず小町谷照彦『古今和歌集』[ちくま学芸文庫,2010]に拠った)(^^)      

       水のほとりに梅の花の咲けりけるをよめる

    43 春ごとに流るる川を花と見て折られぬ水に袖や濡れなむ

    44 年を経て花の鏡となる水は散りかかるをや曇ると言ふらむ

『古今和歌集』の各注釈書は揃って両歌の「花」を詞書に従って「梅の花」と解しているv( ̄∇ ̄)ニヤッ 
同じ歌でも『伊勢集』では桜と解して『古今和歌集』では梅と解する、こーゆー歌を出典とか記さずに
引いてるアホが時々いるよね(-ω-、) それじゃあ、解かんねーだろーがオリャ!!(ノ`△´)ノ ┫:・'∵:.

43を本書22頁は取り上げ、「これは、川のほとりに梅の花が咲いているのを見て詠んだ歌である。」
と「鑑賞」の冒頭に記しながら、この「川のほとり」に付した「脚注」は次のような説明( ̄◇ ̄;)

    川のほとり──伊勢集によれば、宇多天皇が京極院という御殿で梅の花見の宴を
    催した時のものである。

「伊勢集によれば・・・梅の花見の宴」だとぉ∑( ̄ロ ̄|||)にゃんですと!? 前掲『平安私家集』の
この「花の宴」に付されている脚注三では「桜を賞翫する宴。」であると平野由紀子が説明してるし、
秋山虔『王朝の歌人5 伊勢』(集英社,1985)を披いても〈『古今和歌集』では「梅の花」とあるが、
[『伊勢集』で]「花の宴」とある「花」は桜である。〉と説明してるヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!

次に44の奥村恆哉(校注)『新潮日本古典集成 古今和歌集』(新潮社,1978)の口語訳は次の通り(^^)

    鏡は塵が積って曇るものだが、毎年毎年、花を映す鏡となる澄んだ水面は、
    もし曇ることがあるとすれば、落花が散りかかるのを言うのだろうか。

「散りかかる」が「塵かかる」を掛けてることは、前掲『古今和歌集』、前掲『平安私家集』、前掲
『王朝の歌人5 伊勢』は勿論、片桐洋一『原文&現代語訳シリーズ 古今和歌集』(笠間書院,2005)、
片桐洋一『古今和歌集全評釈(上)』(講談社学術文庫,2019)、久曾神昇(全訳注)『古今和歌集
(一)』(講談社学術文庫,1979)、小島憲之&新井栄蔵(校注)『新日本古典文学大系5 古今和歌集』
(岩波書店,1989)が揃って指摘あるいは歌の訳に反映させている、同歌の解釈上のポイント(⌒~⌒)

ところが、本書24~25頁は同歌を取り上げるが、「口語訳」は「何年も経って、花の鏡となった水は、
花びらが散りかかることを曇ると言うのであろうか。」だし(24頁)、「鑑賞」「脚注」「補注」も
〈鏡に塵かかる〉ことには全く触れておらず、次のような解説がなされている(25頁)(゚ロ゚;)

    ・・・昔の鏡は金属製であったから、手入れが大変で、すぐに曇ってしまうものであった。
    この歌では、花びらが散りかかって、花が[水面に]映りにくくなることを、見立てた鏡に
    なぞらえて、曇るという表現を使い、いぶかしんでいるのである。・・・

「金属鏡というのは、ガラスの鏡と違ってほっておくとこうして表面に曇りができる。」とフジタも
「魔鏡とシリコン」(細野不二彦『ギャラリーフェイク 003』[小学館文庫,2003])で言ってた^_^;

[追記190603]

尻切れ蜻蛉な記事になっちゃってるので、この続きを以下に追記しておく○ o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

鏡が「金属製」ゆえ「すぐに曇ってしまう」としても、その変化が〈鏡に塵かかる〉と表現されてる
のだろうし、各注釈書も皆そう解しているのだから、本書も一言あってしかるべきだろうヾ(`◇´)ノ

更に、本書25頁は、上記の引用部分に続けて、次のように記しているので、呆気にとられた( ̄◇ ̄;)

    ・・・散る花びら越しの、ぼんやりとしたソフトフォーカスのような画面が、
    美的な世界を春らしく柔らかに包み込んでいる風景である。/さらに、
    このような風景は何年も続いていると表現されている。・・・

初句の「年を経て」は、「花びらが散りかかって」「水」が「曇る」という「風景」ではなく、「水」
が「花の鏡」となる状態が「何年も続いている」ことを指してんだよヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
コレも各注釈書が一致する解釈(-"-) 本書と異なる文脈では、前掲『古今和歌集全評釈(上)』が、
偽作『和歌体十種』を紹介して〈・・・「両方致思体」の実体ははっきりしないが、例歌からすると、
掛詞を使って、自然の景物の描写と我が心の抒情の両方を述べた体[てい]であるらしい。とすれば、
「年をへて」「ちりかかる」に年が経って塵がかかる意をもう少し響かせた方がよいかも知れない。〉
と付言してるのも、「年を経て」は「ちりかかる」にかけないのがフツーであることを示してる(-"-)