中国の古典からじゃなくて良かったというナショナリズム的感想が多いようだが中国趣味じゃん(^_^;)
梅は中国から渡来したもので、新元号「令和」の出典とされてる『万葉集』の「梅花の歌」の「序」の
「初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす」は中国詩文の模倣
と評されてる(^_^;) 字も音もメチャ違和感あるけど使っている内に慣れるかな(^_^;) 古本屋へ行こう
としたら降りそうだったので、昼前の予報を視ようとTV点けると新元号発表のニュースだったわ(^_^;)

【読んだ本】

犬養孝『万葉の旅(下)山陽・四国・九州・山陰・北陸』(現代教養文庫,1964)所蔵本

『万葉集』の本では定評のある本書の「九州(一) 福岡県」の「梅花の宴」の頁から引いておく(^_^;) 

    大宰帥大伴旅人の官邸が当時どこにあったかは不明だが、・・・中央藤原氏の権勢をよそに、
    老年天[あま]ざかる鄙にくだって妻を亡くした旅人が、貴族名門の生いたちに加えて
    中国の詩文のゆたかな教養をもとに、賛酒歌をよみ、あるいは風雅浪漫の世界に遊んで
    やまないのは当然のことだ。遠い鄙にいるだけに府の官人らが大宮人の意識を発揮して
    貴族的風趣をたのしむのもかれらの郷愁の慰めであったろう。そこへ旅人のような
    総帥を得ればこそ〝筑紫歌壇〟は形成されるのだ。天平二年(七三〇)正月一三日
    (太陽暦二月八日)には旅人の官邸で梅花の宴が盛大に行なわれた。集まる者、憶良・
    小野老・沙弥満誓・大伴百代ら筑紫の中央人のほか大隅・薩摩・壱岐・対馬におよぶ
    所管諸国の官人らを加えての饗宴で、そのおりの梅花の歌三二首(他に員外・追加六首)と
    中国詩文を模倣駆使した美文の序とが[『万葉集』の]巻五に所収されている。序の一節に
    「時に初春の令月、気淑[よ]く風和[やはら]ぎ、梅は鏡前の粉を披き…」とある。
    外来植物の異国趣味をも十分味わったはずだ。・・・

御覧の通り、新元号「令和」の出典は「中国詩文を模倣駆使した美文の序」と評されてるじゃん(^_^;)

北山茂夫『万葉群像』(岩波新書,1980)の「第6章 風流の名士大伴旅人」も次のように評してる(^_^;)

    あくる年の一月一三日に、旅人は、帥の官邸で、梅花の宴をひらきました。その「梅花の歌
    三十二首」の「序」に曰く、

      時に、初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を
      薫ず。加以[しかのみにあらず]、曙の嶺に雲移り、松は羅[うすもの]を掛けて
      蓋[きぬがさ]を傾け、夕の岫[くき]に露結び、島は穀[うすもの]に
      封[こ]めらえて林に迷ふ。庭には新蝶舞ひ、空には故雁帰る。ここに天を蓋とし、
      地を坐[しきゐ]とし、膝を促[ちかづ]け觴[さかづき]を飛ばす。言を一室の
      うちに忘れ、衿を煙霞の外に開く。淡然に自ら放[ほしいまま]にし、快然に自ら
      足る。若し翰苑あらぬときには何を以ちてか情を攄[の]べむ。詩に落梅の篇を
      紀[しる]す。古今それ何そ異ならむ。園の梅を賦して、聊[いささ]かに短詠
      (短歌)を成すべし。

    これがさきに、「初春宴に侍す」一篇を成した旅人の、後年大宰府において草した文章で
    あります。梅花の宴の主宰者は、旅人自身であり、宮廷の詩宴と異なり、ここには、
    自由な空気が横溢し、そこのところをかれがいきいきと記しています。宴ももとより
    この老大官の好むところでありますが、それをまとめて風雅な「序」を書くことに、
    愉悦があったのです。この序付きの歌は、都の知友におくられ、もてはやされたでしょう。
    「序」を、中国的趣致の発現した文章として重く見、味わっていただきたいとおもいます。
    それが、奈良朝貴人が誇りともした文化価値の一つでありました。

以上の如く、同書も「令和」の出典とされる「序」を「中国的趣致の発現した文章」と評してる(^_^;)

『万葉集』で「梅」なら中国趣味を疑わんと^_^; 犬養孝『万葉のいぶき』(新潮文庫,1983)も引く^_^;

    ところで『万葉集』では、梅の花を詠んだものかいちばん多い。普通、花というと
    桜のように思うでしょうが、そうではないんです。梅の花は外来種ですから、
    大宰府あたりは、まず梅の花が入ってきていたんでしょう。だから当時の
    〝文化人〟からみたら梅は新しい花で、こんにちの人が見る梅の感覚と違います。
    たとえばこんにちの人が西洋の花をみて楽しむような、ある種のエキゾティックな
    感覚もあったんだろうと思います。