外出時に垣根から覗くと井戸の石蓋の上に猫さんが居た(^^) 声を掛けるとびっくりして振り向いたのは
昨日の美形だった(〃'∇'〃) 1時間ほどして帰宅すると、まだ寛いでた(^_^;) 傍のタイザンボクの上に
巣箱を設置しておいたのに、鳥さんが入らなかったのは、建売住宅より注文住宅が好きとかではなくて、
美形の猫さんが近くに居たせいだったりして(@_@;) 猫さんと鳥さん、どちらを取るべきか(ノ_-;)ハア…

朝日夕刊に〈野口さん「君は特別な存在だった」〉との見出しで「西城秀樹さんの告別式」の記事(@_@)

    続いて郷さんは「同じ世代を駆け抜けていく同士という思いでした。・・・」と語った。

この「同士」は「同志」の誤植だよね(^_^;) 執筆者は「編集委員・小泉信一」だけど、彼が書いた記事
「ドラキュラの伝説に迫る」内で呼称が一貫してない点を「170820読んだ本&買った本」で指摘済^_^;
なお、朝日新聞を目の敵にしてるわけではなく、ドウシ(同誌ではなく同紙)しか取ってないから^_^;

【読んだ本】

杉本苑子『西国巡拝記』(中公文庫,1980)所蔵本

「番外 花山院」を読んだ(^^) 花山院も、観音さまではなく、元慶寺と同様、薬師如来が本尊の由(^^)

    晩年を、花山法皇は、摂州三輪の花山院ですごした。/げんざい、宗派は真言宗。
    山号、東光山――。神戸を起点とした場合、第二十五番御嶽山清水寺への道すじに
    あたる。/神戸電鉄、あるいは国鉄福知山線の三田[さんた]駅から車で約二十分
    ・・・・・・。下車してからは胸つき十丁ほどの登り坂だが、なかば以上、車のまま
    ゆける。・・・すぐあとにひかえている清水寺が、それこそいやおうなく、十八丁の
    登り坂なのだから、足に自信のない巡拝者は、次のために体力を残しておく必要がある。

さてさて、小生好みの興味深~い「伝説」が紹介されていたから、続けてメモっちゃおっと(^o^)丿

    東光山のふもと、戸数三十軒あまりの小集落を〝尼寺[にんじ]村〟とよぶ。いわく
    ありげな名前だと思ったが、はたしてあわれな伝説が語りつたえられていた。/ある
    月の澄んだ夜、勤行している法皇の耳に、かつて宮廷で聞いたとおなじ琴のしらべが、
    松籟[←松に吹く風の音のことで「しょうらい」と読む]にまじってながれてきた。
    いぶかしく思って花山院を出、参道のふもと近くまでくだってくると、そこに見なれない
    草庵がむすばれ、むかし近侍していた女房十一人が、尼すがたで住んでいるのに遇った。
    琴をひいていたのは、うちの一人だったのである。/彼女たちは法皇を慕って都をぬけ
    出してきたのだが、女人禁制の建札[ママ]におそれて山麓に住みつき、尼となった
    もので、尼寺村のはずれには、古い椿の木の下に、その墓と称する小さな十一基の
    五輪塔が、いまなお苔むしたままのこっている。

花山院と言えば、倉本一宏『平安朝 皇位継承の闇』(角川選書,2014)を思い出しちゃったよ(^_^;)

花山天皇の「暴虐」や「狂気」を語る説話集や歴史物語は多いけど、〈実は同時代の古記録類には、
花山の「狂気」を示すような記事は存在しない。〉(同書137頁)とし、同書176頁は断言してる^_^;

    これらの説話の内容が、いずれもきわめて政治性の強いもので、花山をことさらに
    「狂気」の人物と貶め、そのような人物が皇位にあること、そしてその子孫が皇統を
    嗣ぐことの不当性を強調するために、悪意を以て創作されたものであることは、
    もはや確実であろう。

でもさぁ、「・・・精神が異常な状態にあるかどうかは、現代でも判定の難しい問題である・・・」
(同書7頁)とあるし、しかも、大昔の人を精神科医でもない歴史学者が精神鑑定できるのかね(@_@)
直接診断してない精神科医がワイドショー等で被疑者・被告人の精神状態を語るのと同じ類い(^_^;)

ついでに指摘しておくけど、同書169頁は『江談抄』にのる(表題のみで本文を欠く)説話に関して、

    たしかに、「[花山]天皇の闊達さ、陽気さを物語るものであるが、当時の
    宮廷・貴族の慣習よりみれば、異常な行動としか見えなかった」であろうが、
    牛車の轅に犬を乗せても、犬が好きなのだなあと思うだけで、何が悪いのだろう
    という気がする。

と論評しているのには、流石に呆れたぞ(-"-) 土田直鎮『日本の歴史5 王朝の貴族』(中公文庫,2004
改版)巻末の「解説」で倉本一宏自身が次のように書いてたじゃないかヾ(`◇´)ノ彡☆コノ!バカチンガァ!!

    一九八〇年四月、東京大学文学部国史学研究室の進学生歓迎会の三次会(参加学生は
    私を含め三名、場所は西新宿の某所)において、土田先生はやおら居住まいを正され、
    「これから遺言を話す。俺が死んだら紙に書いて国史の研究室に貼っておけ」と
    おっしゃり、我々二人に対して、次のような「遺言」を述べられた(一人はすでに
    それを聞けるような状態ではなかった)。/ 一、現代人の心で古代のことを考えては
    いけない。/ 二、古代のことは、古代の人の心にかえって考えなくてはならない。/
     三、俺は長い間、そうしようと思ってやってきたが、結局駄目だった。/お前らに
    できるわけがない。ざまぁみろ。/この内容について、私などが云々できるものではない。
    しかしながら、古代のことを古代の人の心で考えるという、いわば当たり前のことを、
   「透徹した史眼を鍛え、犀利な考察を行った」(『日本歴史』五三九号掲載の笹山晴生氏に
    よる「訃報」)土田先生が口に出されるとき、その含む意味の深さはいかばかりであろう。

倉本一宏は、「古代のことを古代の人の心で考えるという、いわば当たり前のことを」忘れてしまい、
「犬が好きなのだなあと思うだけで、何が悪いのだろうという気がする。」なんてアホかヾ(`◇´)ノ

公平を期すため、紹介しておくけど、同書177頁によると、鎌倉時代中期のような「平安時代の皇統が
もはや問題にならなくなった時代には」、「花山院だけが実の遁世をなさった方である。」と評価する
沙石集のような仏教説話集も現れてきてた由(^^) また説話で語られてる花山院の修業譚だけど、「・・・
史料を厳密に見てみると、これもすべてが史実であると断言できるものではないようである。」(同書
178~179頁)し、「以上の花山院の修業譚というのは、まさに流浪する伝説の悲劇的なヒーローとして
形成されていったのである。」(同書187頁)とは興味深いね(^^) 無駄にサービスしちった(-ω-、)

栃ノ心の2敗目に多くが溜め息だと思うが、鶴竜のまわし、チト緩すぎと素人には見えたのだが(^_^;)