少々アダルトな歌説話だけど、紳士淑女のSo-netブロガー諸君はスルーしてくれ給え C= (-。- ) フゥー
「帰宅するまでが修学旅行だから絶対に寄り道するなよ」と担任の先生から念を押されたはず(^_^;)
【読んだ本】
藤岡忠美(校注)『新 日本古典文学大系 29 袋草紙』(岩波書店,1995)所蔵本
大江公資[きんより]は歌を詠むことに御執心だったという当時の評判が分かる有名な歌説話が(^_^;)
ソレは歌壇の権威だった六条家の藤原清輔の歌学書『袋草紙』に載ってるんだけど、本書の脚注の訳も
参考にさせてもらいながら、とりあえず、当該一節を次のように試訳してみた(^_^;)
和歌というものは、好んでみても何の利益にもならないことがある。大江公資は大外記のポスト
を希望していた。衆議の時、公卿たちは皆、公資の任官を必ず許可するだろうということだった。
ところが、右大臣の藤原実資が「公資は相模を抱きながら秀歌を詠むことばかり考えているから
公務が疎かになる」と発言し、公卿たちは顎がはずれるほど大爆笑。そのため、公資は大外記に
任官できなかったという。これは公資が相模を妻としていた頃の話。公資が相模守となったため、
彼女は相模と言われるようになったが、結婚前の女房名は乙侍従であったという。
この大江公資の歌が勅撰集である後拾遺集に入ってて、昨日はソレを取り上げて問題提起をした(^^)
あづまぢの おもひでにせん ほととぎす 老曾の森の 夜半[よは]のひと声
藤本一恵(全訳注)『後拾遺和歌集(一)』(講談社学術文庫,1983)による〔歌意〕は次の通り(^^)
老曾の森で聞いたほととぎすの(すばらしい)夜半の一声を、東路での思い出に
したいものだなぁ。
その詞書から、「相模守として上洛した際」に詠まれたことが判る(^^) でも、相模国から京都までの
長~い旅路には多くの名所・名勝があるにもかかわらず、「思い出」となるのが、ゴールである京都も
目前に迫った近江の老蘇森でのホトトギスの一声だけだったなんて、ヘンだと思いませんかね(@_@;)
大江公資が相模守に任じられたのは、本書の脚注によると、寛仁4年(1020年)のこと(^^)、同じ年に
上総介の任を解かれて家族等を連れて京都へと旅立ったのが菅原孝標で、その道中、富士山を観ては
「まったく世間に類のないようすをしている」、清見が関では「眺めのいいことは際限もない」等々、
その娘が年をとってから記したほどなのに(関根慶子[訳注]『更級日記(上)』[講談社学術文庫,
1977]の〈現代語訳〉による)、同じ道を辿ったはずの大江公資は何の感傷も抱かぬとはね( ̄◇ ̄;)
ましてや、「秀歌を詠むことばかり考えている」大江公資が、その道中にも幾つも散在している歌枕
(「富士」も「清見関」も有名な歌枕である)に見向きもしないなんて、不審だよねヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ
和歌の専門家ではないけど、純金の元名古屋嬢が、その謎を解いてあげるわオホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)
冒頭の歌説話に登場し、百人一首にも入っている有名女流歌人の相模だけど、相模守に任じられた夫の
大江公資と一緒に相模国まで赴くも、大江公資が相模守の任期を終えて帰京し、遠江守になるまでの間
に(1025年頃らしい)、二人は別れたとされているのさv( ̄∇ ̄)ニヤッ 相模国に住んでいる間、夫婦仲が
良くなかったことはwikiの「相模」の項にも書かれてて、その辺の事情を勘案すると、大江公資の歌も
深読みできそう(⌒~⌒) 詠まれたのが任期を全うしての帰京時なら次のような含意があるのかも(^_^;)
相模国では妻(相模)との関係が上手くいかなかったから思い出になるようなことはなかったし、
この道中も妻と一緒だから、富士山を観たり名勝や歌枕を通っても気分は晴れなかったよ(-ω-、)
でも、チョー気まずかった長~い旅路も、ついに近江国まで来て、京都も目の前だから、老蘇森の
ホトトギスの声にはホント癒されたよなぁ(〃'∇'〃)
素人が深読みしすぎたかしら(^_^;) 昨日の枕話の喩えを再利用すると、修学旅行先では同級生の彼女と
ケンカばかりで楽しい思い出は作れなかったけど、その帰り道に自宅近くのコンビニのレジでキレイな
お姉さんに遭遇したことだけが、修学旅行の唯一楽しい思い出になってしまった、といった感じか^_^;
唸り声がするので外に出たら垣根の中に猫が居た(^_^;) その視線の先には初見の可愛い猫が居て小生を
見て驚いたような顔(^_^;) 垣根のは愛で続けても一瞥しただけで唸るのを止めず、可愛い方は依然無言
(@_@) でも、飽きたのかプイっと歩き出し、拙宅の玄関脇を抜けて隣家へ^_^; 残された方は憮然とした
顔で侵入してきて、庭を一望・睥睨してた(^_^;) 暑かったけど、昨日の今日だから何とかなったね^_^;
「帰宅するまでが修学旅行だから絶対に寄り道するなよ」と担任の先生から念を押されたはず(^_^;)
【読んだ本】
藤岡忠美(校注)『新 日本古典文学大系 29 袋草紙』(岩波書店,1995)所蔵本
大江公資[きんより]は歌を詠むことに御執心だったという当時の評判が分かる有名な歌説話が(^_^;)
ソレは歌壇の権威だった六条家の藤原清輔の歌学書『袋草紙』に載ってるんだけど、本書の脚注の訳も
参考にさせてもらいながら、とりあえず、当該一節を次のように試訳してみた(^_^;)
和歌というものは、好んでみても何の利益にもならないことがある。大江公資は大外記のポスト
を希望していた。衆議の時、公卿たちは皆、公資の任官を必ず許可するだろうということだった。
ところが、右大臣の藤原実資が「公資は相模を抱きながら秀歌を詠むことばかり考えているから
公務が疎かになる」と発言し、公卿たちは顎がはずれるほど大爆笑。そのため、公資は大外記に
任官できなかったという。これは公資が相模を妻としていた頃の話。公資が相模守となったため、
彼女は相模と言われるようになったが、結婚前の女房名は乙侍従であったという。
この大江公資の歌が勅撰集である後拾遺集に入ってて、昨日はソレを取り上げて問題提起をした(^^)
あづまぢの おもひでにせん ほととぎす 老曾の森の 夜半[よは]のひと声
藤本一恵(全訳注)『後拾遺和歌集(一)』(講談社学術文庫,1983)による〔歌意〕は次の通り(^^)
老曾の森で聞いたほととぎすの(すばらしい)夜半の一声を、東路での思い出に
したいものだなぁ。
その詞書から、「相模守として上洛した際」に詠まれたことが判る(^^) でも、相模国から京都までの
長~い旅路には多くの名所・名勝があるにもかかわらず、「思い出」となるのが、ゴールである京都も
目前に迫った近江の老蘇森でのホトトギスの一声だけだったなんて、ヘンだと思いませんかね(@_@;)
大江公資が相模守に任じられたのは、本書の脚注によると、寛仁4年(1020年)のこと(^^)、同じ年に
上総介の任を解かれて家族等を連れて京都へと旅立ったのが菅原孝標で、その道中、富士山を観ては
「まったく世間に類のないようすをしている」、清見が関では「眺めのいいことは際限もない」等々、
その娘が年をとってから記したほどなのに(関根慶子[訳注]『更級日記(上)』[講談社学術文庫,
1977]の〈現代語訳〉による)、同じ道を辿ったはずの大江公資は何の感傷も抱かぬとはね( ̄◇ ̄;)
ましてや、「秀歌を詠むことばかり考えている」大江公資が、その道中にも幾つも散在している歌枕
(「富士」も「清見関」も有名な歌枕である)に見向きもしないなんて、不審だよねヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ
和歌の専門家ではないけど、純金の元名古屋嬢が、その謎を解いてあげるわオホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)
冒頭の歌説話に登場し、百人一首にも入っている有名女流歌人の相模だけど、相模守に任じられた夫の
大江公資と一緒に相模国まで赴くも、大江公資が相模守の任期を終えて帰京し、遠江守になるまでの間
に(1025年頃らしい)、二人は別れたとされているのさv( ̄∇ ̄)ニヤッ 相模国に住んでいる間、夫婦仲が
良くなかったことはwikiの「相模」の項にも書かれてて、その辺の事情を勘案すると、大江公資の歌も
深読みできそう(⌒~⌒) 詠まれたのが任期を全うしての帰京時なら次のような含意があるのかも(^_^;)
相模国では妻(相模)との関係が上手くいかなかったから思い出になるようなことはなかったし、
この道中も妻と一緒だから、富士山を観たり名勝や歌枕を通っても気分は晴れなかったよ(-ω-、)
でも、チョー気まずかった長~い旅路も、ついに近江国まで来て、京都も目の前だから、老蘇森の
ホトトギスの声にはホント癒されたよなぁ(〃'∇'〃)
素人が深読みしすぎたかしら(^_^;) 昨日の枕話の喩えを再利用すると、修学旅行先では同級生の彼女と
ケンカばかりで楽しい思い出は作れなかったけど、その帰り道に自宅近くのコンビニのレジでキレイな
お姉さんに遭遇したことだけが、修学旅行の唯一楽しい思い出になってしまった、といった感じか^_^;
唸り声がするので外に出たら垣根の中に猫が居た(^_^;) その視線の先には初見の可愛い猫が居て小生を
見て驚いたような顔(^_^;) 垣根のは愛で続けても一瞥しただけで唸るのを止めず、可愛い方は依然無言
(@_@) でも、飽きたのかプイっと歩き出し、拙宅の玄関脇を抜けて隣家へ^_^; 残された方は憮然とした
顔で侵入してきて、庭を一望・睥睨してた(^_^;) 暑かったけど、昨日の今日だから何とかなったね^_^;