大量連投は迷惑なことを気付かせてくれる自己啓発本とかあるといいね〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
ビグ・ザムのようなのを1機すら製造する能力も無いからゴミみたいなザクを量産してるのかな(^_^;)

【読んだ本】

小和田哲男『戦国武将の手紙を読む 浮かびあがる人間模様』(中公新書,2010)

前章(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-08-27 )に続き、「2 北条早雲書状
──ルーツを明かした手紙」を読んだ(^_^;) 「早雲の出自」に関する学説史が纏められてて、本書に
よると、山城国宇治説、大和国在原説の他に京都伊勢氏説があったが、藤岡継平や阿部愿[げん]が
伊勢出身説を唱え、田中義成が京都伊勢氏説を否定して伊勢出身説を支持して決着をつけ、その後は
桑田忠親などの伊勢素浪人説が幅をきかすようになったが、小和田哲男は同説に疑問を持つ由(^_^;)
んで、本書24~25頁に次の記述( ̄◇ ̄;)

    ・・・もう一つ備中伊勢氏説というのがあり、江戸時代に書かれた小瀬甫庵の
    『太閤記』や軍記物の『中国兵乱記』に備中の伊勢氏の出身であったことを
    におわせるものもあったが、きちんとした論文の形で発表したのは藤井駿
    [すすむ]氏の「北条早雲と備中国荏原[えはら]荘」(『岡山大学法文学部
    学術紀要』第五号)というのが最初であった。昭和三十一年(一九五六)の
    ことである。/その後、立木望隆[ついきもちたか]氏が『北条早雲素性考』
    (昭和四十六年刊)で備中伊勢氏説を補強されたが、備中の出身で、京都の史料に
    名のみみえる伊勢新九郎盛時と、伊豆・相模の戦国大名となる伊勢新九郎長氏が
    同一人物であることが論証されないままで、備中伊勢氏説は認知されない状態が
    何年か続いた。「伊勢新九郎という名前が同じ人間が、片や備中・京都で活躍し、
    片や伊勢・駿河・伊豆・相模で活躍した」というわけで、同名異人という解釈
    である。/戦国大名となった伊勢新九郎の名乗りについては、これまで長氏
    あるいは氏茂とされており、備中出身の伊勢新九郎の名乗りである盛時とは
    違っていた。ところが、私は、戦国大名となった伊勢新九郎も名乗りを盛時
    といっており、京都の伊勢氏に養子として入ったことをつきとめたのである。
    これによって、今日、早雲は備中出身の伊勢新九郎盛時だったことが定説として
    受け取られるようになった。/・・・

一般向けの歴史の本を出しまくって量産型ザクのイメージだったけど、小和田哲男にも学問的業績が
あったん・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;アタリマエダロ! 拙ブログ内を検索したら、本能寺の変の単独犯行説の「光秀
勤王家説[小和田哲男「信長非道阻止説」]」を、呉座勇一『陰謀の日本中世史』(角川新書,2018
https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-12-26 )が紹介してたのを忘れてた(^_^;)
歴史の本の場合は一般人対象のものであっても、その内容の全てがゴミということにはなりにくく、
読めば何かしら得られるものがあるはずで、例えば、小和田哲男『豊臣秀吉』(中公新書,1985)でも
最終章「Ⅶ 再生産される太閤伝説」に至って一読の価値が(^_^;) とまれ、ちゃんと調べて執筆し、
非専門家からバカチンされることのない読み応えのある本を出してほしいねぇオホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ!

・小和田哲男『戦国大名と読書』(柏書房,2014)よ、この「古歌」は建仁元年(1201年)の作ゆえ、
 文治5年(1189年)に自害した源義経が「知らなかった」のは当然ヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-08-11

・小和田哲男『戦国武将の実力 111人の通信簿』(中公新書,2015)の著者の「教養」は1点だな(^_^;)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-08-04