丸谷才一は「ちよつと気取つて書け」と言う前に「少しは調べて書け」ヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
「ちよつと気取つて書け」とは、モチ丸谷才一『文章読本』(中公文庫,1980)の有名なフレーズ(^_^;)
丸谷才一には『食通知ったかぶり』なる著作もあるが、和歌知ったかぶりだろオホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)

【読んだ本(バカチン)】

丸谷才一『男もの女もの』(文春文庫,2001)所蔵本

このエッセイ集に入っている「菜の葉に飽いたら桜にとまれ」と題した一篇の冒頭を三度引く(@_@;)

    /笑つてはいけませんよ。蝶について、わたしは一つ重大な疑問をいだいてゐた。
    日本には昔、蝶はゐなかつたんぢやないかといふ疑問である。もちろんそんなことは
    あり得ない。もしも蝶がゐなければ菜の花が困る。絶対にゐたはずである。
    蝶が昔はゐなくつて、後世になつて突如として出現したはずはありません。
    菜の花に限らず、いろんな花へ蜜を吸ひに行つて、花粉を翅につけ、それを運んだに
    決まつてゐる。さう打消すたびにわたしは、しかし王朝和歌で蝶が歌はれないのは
    どうしてだらうと思ひ悩むのであつた。/『古今集』には蝶は出て来ない。/
    『千載集』にも、『新古今』にも出て来ない。/『万葉』にだつてないんです。/
    をかしいぢやないか。/・・・

反証として、「蝶」が出て来る「王朝和歌」が藤原定頼(公任の子)の家集『四条中納言定頼集』に
入っていることを示したし(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2019-07-05 )、
『枕草子』の皇后定子の詠歌や『堤中納言物語』の「虫めづる姫君」の歌に「蝶」が出て来ることを
知り(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-02-17 )、丸谷才一は『枕草子』を
未読かと嘲笑した(^_^;) ところが、これら3例以上の反証が見付かっちゃったよエッ(゚Д゚≡゚Д゚)マジ?

上記引用の『古今和歌集』『千載和歌集』『新古今和歌集』は、制限列挙とすると他の勅撰集(モチ
『万葉集』は勅撰集に非ず)入集歌が「王朝和歌」でないことになってしまうし、論旨からいっても
「例示列挙」であると解され、丸谷才一は全ての勅撰集に目を通した上で「蝶は出て来ない」と断言
したものと思っていたら、『拾遺和歌集』『詞花和歌集』の各入集歌に「蝶」が出て来たぞ( ̄◇ ̄;)

よみ人知らずの歌を小町谷照彦(校注)『新日本古典文学大系7 拾遺和歌集』(岩波書店,1990)から
訳とともに引く( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚

    我が宿の花の葉にのみ寝る蝶のいかなるあさかほかよりは来る

     いつもは我が家の花の葉にばかり寝る蝶だが、今朝はいったい
     どうしたことか、他所からやって来た。

大江匡房の歌を工藤重矩(校注)『詞花和歌集』(川村晃生&柏木由夫&工藤重矩[校注]『新日本
古典文学大系9 金葉和歌集 詞花和歌集』[岩波書店,1989]所収)から訳とともに引くC= (-。- ) フゥー

    百年は花にやどりてすぐしてきこの世は蝶の夢にざりける

     一生を花に戯れて過してきた。それで、此の世はたしかに
     「胡蝶の夢」なのだとわかりました。
    
丸谷才一の上記エッセイの初出は「オール讀物」の1996年1月号~1997年11月号で、久保田淳(監修)
『新日本古典文学大系 別巻 八代集総索引』(岩波書店,1995)の「歌語索引」の「てふ(蝶)」の項
に2首とも載っていたのに、同書すら披かずにテキトーなこと書くなヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!

同書購入は「181108読んだ本&昨日買った本」に出てて、小生も同書で調べずに書いてた(ノ_-;)トホホ…