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220518読んだ本

独創的画期的な新説と思いきや何百年も前に同旨の記述が存在したことを指摘されてたとはね(^_^;)

【読んだ本】

菊地靖彦&木村正中&伊牟田経久(校注・訳)『新編日本古典文学全集13 土佐日記 蜻蛉日記』(小学館,1995)

面白い説を唱えたのが、長谷川政春&今西祐一郎&伊籐博&吉岡曠(校注)『新日本古典文学体系24
土佐日記 蜻蛉日記 紫式部日記 更級日記』(岩波書店,1989)巻末の『蜻蛉日記』の解説に相当する
今西祐一郎「歌・家集・蜻蛉日記」(^^) 藤原兼家は私家集を残しておらず勅撰集入集は10首足らずも
「・・・『蜻蛉日記』の中に、二十六歳から四十四歳にいたる壮年期の和歌を四十二首残した。」し
(同書515頁)、しかも、上・中・下巻から成る『蜻蛉日記』だけど「・・・兼家歌四十二首中、実に
三十六首が上巻に集中し、中・下巻に存する兼家歌は各三首のみ。上巻に較べれば、中、下巻の兼家
歌は無きにひとしい。」(同書516頁)し、更に『蜻蛉日記』上巻所収歌(126首)の詠み人別歌数を
見れば、兼家の36首は日記作者である藤原道綱母の61首に続く2位で、3位の兵部卿章明親王の10首等
と比べた上で、今西祐一郎は次のように考える(同書516頁)(^^)

    ・・・/『蜻蛉日記』上巻が、散文による叙述の充実を示す、中・下巻とは対照的に、
    多くの和歌(全二六一首中一二六首)を擁して私家集的な性格の強い巻であることは、
    すでに指摘されて久しいが、その上巻における右のような兼家歌の突出ぶりを
    あらためて目のあたりにすると、『蜻蛉日記』上巻とは、道綱母の家集めいた姿を
    とりつつ、一方では兼家の歌の収録を主たる目的として編まれた著述であるかのように
    さえ思えてくる。/・・・

山口博『王朝歌壇の研究 村上冷泉円融朝篇』が「古今集時代の私家集は、藤原氏以外諸家の人々の集
がかなりの数を占め」るも『蜻蛉日記』が執筆された『後撰和歌集』『拾遺和歌集』の時代は「藤原
一門、特に忠平の子孫の人々の家集が数の上でも絶対的に他を圧倒している」ので「摂関家歌壇」と
命名していること(「摂関家歌壇と私家集」)を同書516頁は紹介した後、忠平一門では叔父の師尹や
弟の公季といった例外はあるも、父の師輔(九条右大臣集)、叔父の実頼(清慎公集)、叔父の師氏
(海人手古良集)、兄の伊尹(一条摂政御集)、兄の兼通(本院侍従集)、弟の高光(高光集+多武峯
少将物語)、甥の義孝(義孝集)、甥の朝光(朝光集)、甥の道信(道信集)といった具合に私家集
等が残されてて、「・・・忠平一門における兼家の果たした役割の大きさ、そして『蜻蛉日記』から
鮮やかに伝わってくる兼家の歌への関心とその才能を考えあわせるとき、上記の系譜における『兼家
集』の欠落は不可解の一語に尽きる。/・・・」と今西祐一郎は指摘している(同書517頁)(^^)

山口博の『王朝歌壇の研究 村上冷泉円融朝篇』が「歌人兼家と蜻蛉日記」の章において藤原道綱母と
藤原兼家は対立しておらず藤原道綱母は藤原兼家の協力・援助があったので『蜻蛉日記』は成立した
と推測してることを紹介した上で、今西祐一郎は「・・・/だが『蜻蛉日記』成立に際しての、兼家
の道綱母への協力という問題は、さらに一歩進めて両者の立場を逆転させ、むしろ兼家の詠草を記録
するという営みへの道綱母の協力、という具合に考えることもできるのではないか。たとえ道綱母が
生前すでに著名な歌人であったとしても、前掲、忠平一門の私家集の系譜を眺める限りでは、当時の
[摂関家]歌壇においてその詠草の筆録が期待されたのは、兼家の方ではなかったか、とも思える
からである。/・・・」と同書518頁で指摘(^^) 問題意識に基づいて山口博の研究を受け止めて発展
させており、疑問もあるけど読んでて愉しい(⌒~⌒) 同指摘に続いて、同書518~519頁は次のように
今西祐一郎は自らの論を展開する(⌒~⌒)

    ・・・/その意味で、守屋省吾『蜻蛉日記形成論』が「道綱母における私家集編纂の
    他律的要因」として、次のように述べているのは、示唆的である。

      伊尹における『一条摂政御集』のごとく、兼家自らの家集ではなかろうとも、
      道綱母との贈答歌を中心とした家集が、道綱母の手によって纂集されることは、
      兼家にとっては己が和歌的実績を顕現させるに十分に効果的なものであった
      ろう。おそらく、安和元年を下ることそう遠くない時点で、結婚生活十五年間
      に堆積した贈答歌を主要素材とした家集纂集を、兼家自らも道綱母に要請した
      のではなかったか。

    ただし氏の考察は『蜻蛉日記』上巻そのものを対象とするのではなく、それに先立つ
    ものとして想定された『道綱母集』についてであったが、近時、守屋氏の論を承けつつ、
    妹尾好信「王朝女流日記の執筆契機に関する臆説」(国語の研究・13号)が述べた
    ように、「兼家の要請により書かれたのは『蜻蛉日記』上巻そのものである」という
    可能性は十分考慮に値するであろう。/・・・

「・・・和歌を中心とする『蜻蛉日記』上巻が、いわば『兼家集』に相当する役割にも堪えうる作品
であった・・・」(同書519頁)と結論も、更に兼家の子の道隆(家集ナシ)の場合は『枕草子』が、
兼家の子の道長(『御堂関白集』あり)の場合は『紫式部日記』が「・・・広義には忠平一門の文学
活動の系譜につらなる作品ということもできる。おそらくは、当初、家集の編纂という比較的簡素な
形で始められた摂関家歌壇の文学的営為が、摂関政治の充実・成熟に対応して、家集ならぬ家の記録
(日記)という、仮名散文の叙述を必要とする形をとるに至った、その表れが『枕草子』や『紫式部
日記』ではなかったか。」(同書519頁)とまで展開されると流石にちょっと・・・という感じ(^_^;)

とまれ、『蜻蛉日記』上巻は藤原兼家の家集で(も)ある、という今西祐一郎の説は面白いなぁ~と
感心して、本書巻末の木村正中&伊牟田経久(校注・訳)『蜻蛉日記』の「解説」(木村正中執筆)
はどう評価しているのだろうと披いてみたら、その冒頭で先ず『大鏡』の一節が引用されてたので、
そのポイントとなる部分だけを保坂弘司『大鏡全評釈 下巻』(學燈社,1979)による訳で引く(^^)

    ・・・この大将[道綱]の母君〔倫寧の娘〕は、この上もない和歌の名人
    でいらっしゃったので、この兼家公が、お逢いになっていらっしゃった
    ころのことや、その歌などを書き集めて、『かげろふの日記』と名づけて、
    世におひろめになりました。・・・

さて、さて、さ~て!木村正中は本書398頁で次の指摘を行なっていたよ〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

    ・・・[『大鏡』兼家伝の藤原道綱母について述べている件は]まことに要領のよい
    記述といえるであろう。現代の『蜻蛉日記』論の中に、忠平一門の家集の系譜に位置
    づけて見ようとする意見があり、『蜻蛉日記』の「骨子」を「道綱母が夫兼家と息子
    道綱の詠草を記し留めた集である」とする(山口博氏『王朝歌壇の研究 村上冷泉円融
    朝篇』、今西祐一郎氏「新日本古典文学大系」『蜻蛉日記』解説、引用文は後者)のも、
    この『大鏡』の記載を拡大した観があろう。・・・
タグ:和歌 古典
コメント(6) 
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コメント 6

tai-yama

「独創的画期的な新説」は"かげろふ"のように消えては現れる
(現れては消える)様な説だったのかも(笑)。
by tai-yama (2022-05-18 22:55) 

ナベちはる

何百年も前には同様の記述が存在したことは普通は分からないので、「独創的画期的な新説」と思ってしまうのも無理はないですね(^^;)
by ナベちはる (2022-05-19 01:50) 

middrinn

たしかに、かげろふのような新説は多いですけど、
tai-yama様、wiki見ると特記されてます(^_^;)
by middrinn (2022-05-19 05:35) 

middrinn

誰もが読んでいるような古典ですから、かえって、
ナベちはる様、専門家は見落としたのかも(^_^;)
by middrinn (2022-05-19 05:44) 

df233285

「コペルニクス的転換」をコペルニクスが最初だと思うがごとし。

by df233285 (2022-05-19 07:48) 

middrinn

( ^o^)ノ◇ 山田く~ん 特製座布団1枚 ♪
by middrinn (2022-05-19 08:57) 

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