毎日食べるチョコの定価が268円から380円だかに値上げ、拙ブログの質の低下は避けられん(ノ_-;)ハア…

【読んだ本】

久保田淳『新古今和歌集全注釈 三』(角川学芸出版,2011)所蔵本

     恒徳公かくれて後、女の許に、月明き夜忍びてまかりて、よみ侍ける

    ほしもあへぬ衣の闇にくらされて月ともいはずまどひぬるかな

      父恒徳公藤原為光の没後、ある女の所に月の明るい夜ひそかに行って、
      詠みました歌

     涙を干しきれないこの頃は、墨染めの喪服の暗さに見えなくなって、
     月が明るいにもかかわらず、道に迷ってしまったよ。

藤原道信が詠んだ和歌と詞書を本書から歌意や詞書の題意とともに引いたけど、注目すべきは本書が
鑑賞の項で次のように指摘していることv( ̄∇ ̄)ニヤッ

    ・・・/作意は[窪田空穂の]『完本評釈』に「父の喪中とて、妻とする女の家へ、
    人目を忍んで行き、女に心中の悲哀を訴えた形の歌である」という通りである。
    ・・・妻乃至はそれに近い女性であるにせよ、服喪中に訪れることは、憚られたに
    違いない。それゆえにこそ「忍びてまかりて」ということになるのであるが、
    そのような常軌を逸した行動の釈明という意味もあるかと考える。すると、「まどひ
    ぬるかな」というのは、道に迷ったという意味の裏に、理性的判断を失ってしまった
    という気持ちを籠めているのではないであろうか。・・・

石田吉貞『新古今和歌集全註解』(有精堂,1960)が〈女の許へ忍んで行った事を「迷ひぬるかな」と
言ったのが眞の意であろう。〉と先に指摘済みとはいえ、久保田淳の読みは他の注釈書より深い(^^)

白居易(白楽天)が母の喪に服していた時の作である「秋夕」の中に出て来る「誰爲拂塵牀(誰か爲
に塵牀を拂はん)」を歌題にして藤原定家らが閨怨の「恋の歌」詠んでることに先日疑問を呈したが
(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-04-03 )、久保田淳に倣えば、白居易も
「理性的判断を失って」「常軌を逸した行動」を望んでいたと定家らは解したことにヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ
漢詩文読解力に難か、敢えて作為無視のレトリック摘み食いか、どちらにしても如何なものか(^_^;)