他人の話をしているように見えるが実は自分のことだったりして〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

【読んだ本】

奥富敬之『吾妻鏡の謎』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー,2009)

『吾妻鏡』の記事には脱漏があり、特に、源頼朝が建久10=正治元年(1199年)正月13日に亡くなり、
「脱漏になっていた建久七・八・九年は、頼朝の生涯最後の三年間だった・・・」(本書197頁)ため
以前から怪しまれており(ただ、建久10年正月も脱漏だったような気がする)、本書197頁は大坪無射
『東鑑集要』(元禄8=1695年)の「・・・晩年の頼朝には京都の公家や後世の人々に知られたくない
ような〝様子〟、つまり老人性痴呆症があった・・・」との主張を「頼朝不名誉死、本来不執筆説」
と命名( ̄◇ ̄;) 他方で、「頼朝不名誉死、故意破棄説」は「・・・執筆はされたが、のち何者かに
よってわざと破棄された・・・」(本書198頁)とし、この「何者か」は徳川家康とされていることは
有名(^_^;) 尊敬していた頼朝の名誉を守るために破棄したとされる、「この〝家康破棄説〟はかなり
江戸時代には有力だったらしい。新井白石の『老談一言記[ろうだんいちごんき]』もこのことに
言及している。」と本書199頁(^_^;) 小生が一番驚いたのは本書199頁~200頁の次の記述( ̄◇ ̄;)

    ・・・/しかし幕末の探検家として有名な近藤重蔵は、いかにも合理主義者の彼らしい
    徴証を挙げて新井白石の〝家康破棄説〟を一言で論破している。

      然れども、応永(一三九四─一四二七)写本にも頼朝卒去の一条なければ、
      俗説、信ずるに足らず。

    古く室町時代の応永年間に書写された『吾妻鏡』にもすでに頼朝死去の前後の部分が
    欠落している。だから、それより以降の家康が破り棄てたというのは俗説であると
    喝破したのである。/・・・

森銑三『偉人暦(上)』(中公文庫,1996)の「六月九日 近藤重蔵」が「・・・学者としての彼は、
新井白石と共に、徳川時代を通じての二代著述家であったと称される。」と評していたこと、森銑三
(小出昌洋編)『新編 おらんだ正月』(岩波文庫,2003年)に「北海の探検家で書誌学者だった近藤
重蔵」という一篇があって、

    ・・・/御書物奉行といいますのは、紅葉山文庫といって幕府で持っている書物を
    納めた庫[くら]を預る役目でした。重蔵は足掛け十二年間その役目についていて、
    その間に御庫の書物を整理して、それらに関するいろいろ立派な著述などを致し
    ました。それで重蔵は今では書誌学者──書物に関する学問の学者──としても
    大いに重んぜられているのです。・・・

とあるんだけど、書誌学者としての具体的な業績が紹介されてなかったからぴんと来なかったのが、
コレで得心(^_^;) ただ、近藤重蔵は神童だった由、書物奉行になる前の指摘だった可能性も(^_^;)
ところで、前掲『新編 おらんだ正月』は、近藤重蔵が紅葉山文庫の蔵書を読み尽くし書写しまくった
ことも紹介してるけど、実は図書館に勤めていた頃の森銑三自身もそんな感じだったりしてね(^_^;)

・森銑三『偉人暦(上)』(中公文庫,1996)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2028-06-17

・森銑三(小出昌洋編)『新編 おらんだ正月』(岩波文庫,2003年)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-05-10