読書の厄介なところは、知識をアップデート出来たか確かめられないことである〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)
【読んだ本】
渡邊大門編『戦乱と政変の室町時代』(柏書房,2021)
先日の第2章の市川裕士「明徳の乱」に続いて、第3章の浅野友輔「応永の乱」を読んだよ(⌒~⌒)
第3章「応永の乱」「反乱」か「世直し」か?──大内義弘、幕府軍との闘い 浅野友輔
「応永の乱」の時代背景/マルチな活躍を見せる義弘/義弘と義満の微妙なすれ違い/
義弘・義満、決別の瞬間/鎌倉公方と義弘の「世直し」計画/影をちらつかせる
今川了俊/義弘対幕府の情報戦と義満施策の爪痕/大内義弘の覚悟/義弘の死と
その計画の挫折/乱後の関係者の足どりと余波/
足利義満が大内義弘を討つという噂や、義弘が和泉に帰国すると義弘謀反の噂も広まってて、義満は
義弘の真意を確かめようと応永6年(1399年)10月27日に禅僧の絶海中津を義弘のもとに派遣したが、
その結果を本書60頁は次のように記している(^^)
・・・/しかし結局、義弘が中津の説得に応じることはなかった。それどころか、
義弘は「鎌倉公方の足利満兼と連携して義満の政道を諫める」と約束しており、
そのために翌月頭には満兼とともに上洛すると言った(「寺門事条々聞書」、
『応永記』)。/・・・
「寺門事条々聞書」は「興福寺の学僧による記録の一部」(本書60頁)の由、本書61頁に次の件(^^)
/当時、東国一帯に影響力をもった鎌倉公方の足利満兼は、父・氏満の死
(応永五年)からほどなくして義満への対抗姿勢を燃やしていた。応永六年
十月二十五日付けで、満兼は大和(奈良県)の興福寺に向けて義満への反抗表明と、
自身への協力要請を記した手紙を送った。/特に興福寺に送った文面には
「(満兼は)天命を奉り、暴乱(義満)を討ち、国を鎮めて民心を安定させる」
とあり、満兼が新たに畿内を掌握する盟主となる野心が全面に押し出されていた
(「寺門事条々聞書」)。加えて、満兼は義弘の影響力が強い安芸国内の勢力にも
決起の手紙を書き送っていた(『萩藩閥閲録』)。/・・・
佐藤進一『日本の歴史9 南北朝の動乱』(中公文庫,1974→2005改版)で、この時代を学んだ小生、
最新の研究も紹介してるらしい本書を読んで知識をアップデートしようと考えたわけだけど、同書で
佐藤進一は次のような興味深~い指摘をしてたのさ(@_@;)
・・・満兼は興福寺に誘いの手をのばして、
「天命を奉じて暴乱を討ち、国を鎮め民を安んぜんとす」
と、挙兵の目的を明らかにした。これが義弘のいう諫めの実体である。
また、これまでの反乱者が南朝に走り、皇胤をかついだのにたいして、
満兼が中国の革命思想によって天命をかかげたことは注目に値する。・・・
この「満兼が中国の革命思想によって天命をかかげたこと」について、本書が特に論じていないのは
「注目に値」しないということなのかな(@_@;) 1392年の南北朝合体からまだ数年だから、そもそも
満兼・義弘が「南朝に走り、皇胤をかつ」ぐというのはありえなかった気もするんだけどね(@_@;)
11月に入って義満が諸大名の軍勢を率いて和泉へと進軍すると、本書67頁は次のように叙述(@_@;)
・・・/一方、義満・幕府方の動きを受けてか、義弘は決戦前にはすでに死を覚悟
していたという(松岡[久人『大内義弘』]:一九六六)。義弘は堺の防備が整うと、
喜びながらも今生の別れを覚悟し、歌会を開いたり、西国に残る弟の盛見に連絡を
するなど、従容[しょうよう]として戦いの時を待った(『応永記』)。/・・・
「すでに死を覚悟していた」とするが、佐藤進一・前掲書には次のような記述があるのだが(@_@;)
・・・/義弘が反乱を起こした応永六年(一三九九)には、使節を朝鮮に
送って、大内の祖先が百済の出身であることを述べて、世系の調査と
朝鮮に土地を与えられることを請うた。義弘が朝鮮に領地を得ようとした目的が
朝鮮侵略の足がかりを得るにあったと見たら、飛躍した想像になるだろうが、
朝鮮と特殊な関係を結んで、日本と朝鮮の通交貿易に特別の位置を占めようとした
意図のあらわれとは解釈できないだろうか。倒幕を決意して、つぎに述べるような
大がかりな討幕計画を進めていたことを考えると、万一失敗したばあい、
朝鮮に身をよせるつもりだったかもしれない。/・・・
・秦野裕介「観応の擾乱」は「九州だけは南朝が・・・支配した」とするが、「九州」は誇張(@_@;)
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-05-22
・市川裕士「明徳の乱」は教わることが多く目から鱗ボロボロも『明徳記』を誤読してる疑い(@_@;)
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-05-23
【読んだ本】
渡邊大門編『戦乱と政変の室町時代』(柏書房,2021)
先日の第2章の市川裕士「明徳の乱」に続いて、第3章の浅野友輔「応永の乱」を読んだよ(⌒~⌒)
第3章「応永の乱」「反乱」か「世直し」か?──大内義弘、幕府軍との闘い 浅野友輔
「応永の乱」の時代背景/マルチな活躍を見せる義弘/義弘と義満の微妙なすれ違い/
義弘・義満、決別の瞬間/鎌倉公方と義弘の「世直し」計画/影をちらつかせる
今川了俊/義弘対幕府の情報戦と義満施策の爪痕/大内義弘の覚悟/義弘の死と
その計画の挫折/乱後の関係者の足どりと余波/
足利義満が大内義弘を討つという噂や、義弘が和泉に帰国すると義弘謀反の噂も広まってて、義満は
義弘の真意を確かめようと応永6年(1399年)10月27日に禅僧の絶海中津を義弘のもとに派遣したが、
その結果を本書60頁は次のように記している(^^)
・・・/しかし結局、義弘が中津の説得に応じることはなかった。それどころか、
義弘は「鎌倉公方の足利満兼と連携して義満の政道を諫める」と約束しており、
そのために翌月頭には満兼とともに上洛すると言った(「寺門事条々聞書」、
『応永記』)。/・・・
「寺門事条々聞書」は「興福寺の学僧による記録の一部」(本書60頁)の由、本書61頁に次の件(^^)
/当時、東国一帯に影響力をもった鎌倉公方の足利満兼は、父・氏満の死
(応永五年)からほどなくして義満への対抗姿勢を燃やしていた。応永六年
十月二十五日付けで、満兼は大和(奈良県)の興福寺に向けて義満への反抗表明と、
自身への協力要請を記した手紙を送った。/特に興福寺に送った文面には
「(満兼は)天命を奉り、暴乱(義満)を討ち、国を鎮めて民心を安定させる」
とあり、満兼が新たに畿内を掌握する盟主となる野心が全面に押し出されていた
(「寺門事条々聞書」)。加えて、満兼は義弘の影響力が強い安芸国内の勢力にも
決起の手紙を書き送っていた(『萩藩閥閲録』)。/・・・
佐藤進一『日本の歴史9 南北朝の動乱』(中公文庫,1974→2005改版)で、この時代を学んだ小生、
最新の研究も紹介してるらしい本書を読んで知識をアップデートしようと考えたわけだけど、同書で
佐藤進一は次のような興味深~い指摘をしてたのさ(@_@;)
・・・満兼は興福寺に誘いの手をのばして、
「天命を奉じて暴乱を討ち、国を鎮め民を安んぜんとす」
と、挙兵の目的を明らかにした。これが義弘のいう諫めの実体である。
また、これまでの反乱者が南朝に走り、皇胤をかついだのにたいして、
満兼が中国の革命思想によって天命をかかげたことは注目に値する。・・・
この「満兼が中国の革命思想によって天命をかかげたこと」について、本書が特に論じていないのは
「注目に値」しないということなのかな(@_@;) 1392年の南北朝合体からまだ数年だから、そもそも
満兼・義弘が「南朝に走り、皇胤をかつ」ぐというのはありえなかった気もするんだけどね(@_@;)
11月に入って義満が諸大名の軍勢を率いて和泉へと進軍すると、本書67頁は次のように叙述(@_@;)
・・・/一方、義満・幕府方の動きを受けてか、義弘は決戦前にはすでに死を覚悟
していたという(松岡[久人『大内義弘』]:一九六六)。義弘は堺の防備が整うと、
喜びながらも今生の別れを覚悟し、歌会を開いたり、西国に残る弟の盛見に連絡を
するなど、従容[しょうよう]として戦いの時を待った(『応永記』)。/・・・
「すでに死を覚悟していた」とするが、佐藤進一・前掲書には次のような記述があるのだが(@_@;)
・・・/義弘が反乱を起こした応永六年(一三九九)には、使節を朝鮮に
送って、大内の祖先が百済の出身であることを述べて、世系の調査と
朝鮮に土地を与えられることを請うた。義弘が朝鮮に領地を得ようとした目的が
朝鮮侵略の足がかりを得るにあったと見たら、飛躍した想像になるだろうが、
朝鮮と特殊な関係を結んで、日本と朝鮮の通交貿易に特別の位置を占めようとした
意図のあらわれとは解釈できないだろうか。倒幕を決意して、つぎに述べるような
大がかりな討幕計画を進めていたことを考えると、万一失敗したばあい、
朝鮮に身をよせるつもりだったかもしれない。/・・・
・秦野裕介「観応の擾乱」は「九州だけは南朝が・・・支配した」とするが、「九州」は誇張(@_@;)
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-05-22
・市川裕士「明徳の乱」は教わることが多く目から鱗ボロボロも『明徳記』を誤読してる疑い(@_@;)
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-05-23