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【読んだ本】
小町谷照彦『王朝の歌人7 藤原公任』(集英社,1985)所蔵本
一流の歴史学者の定評ある歴史書が、藤原実資が藤原道長の詠んだ歌に返歌をしなかったのは和歌に
「自信がなかった」からとしていたが、ソレは秀歌に対して劣る返歌はしないという「しきたり」の
実例として有名な歌学書が採り上げてた出来事であり、相変わらず無教養と昨日指摘C= (-。- ) フゥー
紫式部を崇拝するバカチン国文学者からも和歌は「不得手」と決めつけられてしまう藤原実資、日記
『小右記』の長保元年(999年)9月10日条を見ると、嵯峨へ赴いて人々を誘って和歌の宴を主催して
たりもするのに(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-09-29 )( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚
もし本当に藤原実資は和歌を詠むのが「不得手」だとすると、下手の横好きなのかもね(⌒~⌒)ニヤニヤ
2日後の9月12日条を倉本一宏編『現代語訳 小右記3 長徳の変』(吉川弘文館,2016)116頁から(^^)
十二日、辛卯。 道長嵯峨に遊ぶ
早朝、左府[藤原道長]が書状を送られた。山辺の紅葉を見る為に相伴せよ
とのものである。ところが物忌であったので、追従しなかった。
道長から誘われたのにタイミングが悪くて行けなかったため、ある歴史的瞬間に実資は立ち会う機会
を逸したけど(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2019-05-03 )、実資の身辺に
道長側のスパイがいるように(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-09-20 )、
道長側の動静もすぐに実資の耳に入ることは、翌日の9月13日条(同書116頁)からも判る(⌒~⌒)
十三日、壬辰。 東三条院競馬・和歌会
源相公[俊賢]が談って云ったことには、「昨日、左府[道長]は嵯峨・大井を遊覧し、
すぐに女院(藤原詮子)に帰り参った。競馬[くらべうま]が行なわれた。その後、
和歌を読んだ。左衛門督(藤原)誠信・右衛門督公任が追従した。また、右大弁行成
〈蔵人頭。〉と外記慶滋為政が同車した。奇怪な事である。往古から聞いたことのない
事である」と云うことだ。・・・(源)忠良朝臣が談って云ったことには、「昨日の
競馬は、一番は左近少将(藤原)成房と左兵衛佐(源)雅通。次々の番は、近衛府の官人
・近衛次将・衛門府でした」と。競馬は、これは尋常ではない。極めて稀有の事である。
後の為に記す。
実資の日記『小右記』には道長を批判した記述が結構あることから、政治史しか頭にない歴史学者は
政治的対立者の如く実資を描きたがり、同文脈でこの条も解されそうだが、本書は違うv( ̄∇ ̄)ニヤッ
・・・道長の私的な催しに廷臣たちが参加し、儀礼の慣行を破り、公私混同を
していると憤慨している。もっとも、『小右記』によれば、実資も二日前の十日に
右兵衛督源憲定らと連れだち、中原致時・源兼澄らの歌人たちをともない、嵯峨・
大井へおもむき、和歌の会を催しているから、公憤というより私怨といったほうが
よいかもしれない。・・・
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【読んだ本】
小町谷照彦『王朝の歌人7 藤原公任』(集英社,1985)所蔵本
一流の歴史学者の定評ある歴史書が、藤原実資が藤原道長の詠んだ歌に返歌をしなかったのは和歌に
「自信がなかった」からとしていたが、ソレは秀歌に対して劣る返歌はしないという「しきたり」の
実例として有名な歌学書が採り上げてた出来事であり、相変わらず無教養と昨日指摘C= (-。- ) フゥー
紫式部を崇拝するバカチン国文学者からも和歌は「不得手」と決めつけられてしまう藤原実資、日記
『小右記』の長保元年(999年)9月10日条を見ると、嵯峨へ赴いて人々を誘って和歌の宴を主催して
たりもするのに(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-09-29 )( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚
もし本当に藤原実資は和歌を詠むのが「不得手」だとすると、下手の横好きなのかもね(⌒~⌒)ニヤニヤ
2日後の9月12日条を倉本一宏編『現代語訳 小右記3 長徳の変』(吉川弘文館,2016)116頁から(^^)
十二日、辛卯。 道長嵯峨に遊ぶ
早朝、左府[藤原道長]が書状を送られた。山辺の紅葉を見る為に相伴せよ
とのものである。ところが物忌であったので、追従しなかった。
道長から誘われたのにタイミングが悪くて行けなかったため、ある歴史的瞬間に実資は立ち会う機会
を逸したけど(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2019-05-03 )、実資の身辺に
道長側のスパイがいるように(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-09-20 )、
道長側の動静もすぐに実資の耳に入ることは、翌日の9月13日条(同書116頁)からも判る(⌒~⌒)
十三日、壬辰。 東三条院競馬・和歌会
源相公[俊賢]が談って云ったことには、「昨日、左府[道長]は嵯峨・大井を遊覧し、
すぐに女院(藤原詮子)に帰り参った。競馬[くらべうま]が行なわれた。その後、
和歌を読んだ。左衛門督(藤原)誠信・右衛門督公任が追従した。また、右大弁行成
〈蔵人頭。〉と外記慶滋為政が同車した。奇怪な事である。往古から聞いたことのない
事である」と云うことだ。・・・(源)忠良朝臣が談って云ったことには、「昨日の
競馬は、一番は左近少将(藤原)成房と左兵衛佐(源)雅通。次々の番は、近衛府の官人
・近衛次将・衛門府でした」と。競馬は、これは尋常ではない。極めて稀有の事である。
後の為に記す。
実資の日記『小右記』には道長を批判した記述が結構あることから、政治史しか頭にない歴史学者は
政治的対立者の如く実資を描きたがり、同文脈でこの条も解されそうだが、本書は違うv( ̄∇ ̄)ニヤッ
・・・道長の私的な催しに廷臣たちが参加し、儀礼の慣行を破り、公私混同を
していると憤慨している。もっとも、『小右記』によれば、実資も二日前の十日に
右兵衛督源憲定らと連れだち、中原致時・源兼澄らの歌人たちをともない、嵯峨・
大井へおもむき、和歌の会を催しているから、公憤というより私怨といったほうが
よいかもしれない。・・・