おそらく怨みを買ったであろう倉本一宏は1000年の時を超えて安倍晴明によって呪・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;
「東京アメッシュ」では降っていなくても外に出てみると霧雨だったりする天気が続いている(@_@;)

【読んだ本】

倉本一宏(日本歴史学会編集)『一条天皇』(吉川弘文館人物叢書,2003新装版)所蔵本

意図的なのか不注意なのか、本書の次の記述、ある事実が欠落している〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

    ・・・/この[長保6=寛弘元(1004)]年の夏は炎旱[えんかん]が続いていたが、
    七月十日、ついに一条は清涼殿の庭中において雨を祈るという挙に出た。天皇みずから
    雨乞いを行なうのは、桓武天皇の延暦七年(七八八)以来のことであるが、これが
    失敗した場合のことを考えると、決して望ましい行動とは言えまい。ところが
    翌十一日の朝、一条は「飲酒御覧せり」という夢を見た。これを聞いた道長は、
    すぐさま「雨下[ふ]るか」と奏上、それを承けた一条は「天気(天皇の機嫌)、宜し」
    と上機嫌であったとある。民を思う一条の心情と、道長との円満な君臣関係が窺える例
    である。なお、「事感ずる」ことがあったらしく、午の後(午後十二時過ぎ)、雷鳴
    とともに小雨が降り、十二日から十四日までは雨が続いている(『御堂関白記』)。/
    それでも炎旱は続き、七月二十日、ついに改元定が開かれた。・・・

先ずは、倉本一宏(全現代語訳)『藤原道長「御堂関白記」(上)』(講談社学術文庫,2009)から
寛弘元年(1004年)7月の上記記述に関連する条を引く(なお、「十九日」の条は無い)(⌒~⌒)

    十日

     この何日か、雨が降らなかった。内裏に参った。主上(一条天皇)は、
     清涼殿の庭中において御祈を行なわれた。・・・

    十一日

     今朝、天皇は御夢を見られた。「酒を飲む夢を御覧になられた」ということだ。
     すぐに参上して云ったことには、「雨が降るのでしょうか」と。酉剋の頃、奏上した。
     天皇の機嫌は宜しかった。退出した後、午の後剋に小雨が降った。天が事に感じることが
     有ったのだろう。雷声が有った。

    十二日

     雷声が有った。小雨が降った。・・・

    十三日

     雷声がして夕立が有った。

    十五日

     天が晴れた。・・・

    十六日

     天が晴れた。・・・

    十七日

     天が晴れた。・・・

    十八日

     天が晴れた。・・・

    二十日

     天が晴れた。午の後剋に夕立があった。午剋に内裏に参った。東大寺大仏殿において、
     二百口の僧を招請して、二十五日から祈雨御読経を行なうという宣旨が下った。その後、
     改元の詔書が下った。改元して寛弘とした。・・・

24日にも「諸社祈雨奉幣」があり、8月も「大極殿祈雨御読経定」「中和院祈雨」「天台諸院祈雨」
「大極殿祈雨御読経延長」「大極殿祈雨御読経結願」「諸社祈雨奉幣使」が各条の見出しに並んで、
11月7日には「・・・夏から炎旱がまだ続いている。京中の井戸の水は、四条以北は尽きてしまった。
鴨川辺りに至っても同様である。鴨川の水も、三条以北では尽きた。・・・」由ヒィィィィィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ

さて、本書の上記記述で欠落しているのは同書の7月14日の条が記してる事実オホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ!

    十四日

     一日中、陰[くも]っていた。時々、小雨が降った。夜に入って、大雨が降った。
     右頭中将(藤原実成)が天皇の仰せを伝えて云ったことには、「(安倍)晴明朝臣が
     五竜祭を奉仕したところ、天の感応が有った。被物[かずけもの]を賜うこととする」
     ということだ。早く賜うべきである。雷声は小さかった。

「十四日まで」降り続いたのは「民を思う一条の心情」のお蔭のように描いて好感度アップか(@_@;)

・倉本一宏(日本歴史学会編集)『一条天皇』(吉川弘文館人物叢書,2003新装版)の記述ミス(-ω-、)

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