〈指揮官の迷走で開幕大コケ!早くもストーブリーグ突入!?「阪神&オリックス」「ベンチ裏実況
中継」〉なる記事が「週刊プレイボーイ」に載ってるが、大昔にジョークを投稿して採用されたのに
5000円送ってこなかったから(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2019-09-21 )、
絶対に買ってやらんぞ(ノ ̄皿 ̄)ノダマスンジャネーヨ!┫:・’.:: メチャ読みたいけどね(-ω-、)
【読んだ本】
松村博司『日本古典評釈・全注釈叢書 栄花物語全注釈(三)』(角川書店,1972)
山中裕&秋山虔&池田尚隆&福長進(校注・訳)『新編日本古典文学全集33 栄花物語③』(小学館,1998)
『栄花物語』巻第十二「たまのむらぎく」には、長和5年(1016年)7月に死の床にあった藤原穆子、
「丹波の中将」(源雅通)と「権少将」がお傍から離れると「いづらいづら(どこへ行ったかどこへ
行ったか)」とお探しになられたという場面(´;ω;`)ウッ… 松村・本書331頁の「権少将」の語釈や
山中裕他・本書76頁は、この「権少将」を藤原兼経(父は藤原道綱、母は源雅信と藤原穆子の娘)と
しているが、古記録に照らしてソレはありえないと一昨日に指摘したヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
それでは、この場面における「権少将」は、藤原兼経でないとするなら、誰なのであろうか(@_@;)
興味深いのは、この「権少将」は、松村・本書330頁の校異欄によると、校合異本の「西本願寺本」と
「富岡家旧蔵本」(甲・乙の二本ある)には「小少将」と表記されていることである(なお、松村・
本書も山中裕他・本書も底本は「梅沢本(旧三条西家本)」である)∑( ̄ロ ̄|||)ニャンですと!?
この点を松村・本書の「権少将」の語釈(同331~332頁)は次のように説明しようとしてた(@_@;)
・・・西本・古活字本などに、「小少将」とあるのは、「こん」(権)の撥音表記を
省略したものに、「小」を当てたか。・・・
あくまでも素人考えなんだけど、むしろ「小少将」の方が正しいのでは〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
この「小少将」は源雅信と藤原穆子の子の源時通の娘で「丹波の少将」源雅通の妹かとv( ̄∇ ̄)ニヤッ
小少将の君は一条天皇の中宮の藤原彰子(藤原道長の娘)に女房として仕えていたが、同僚で親友の
紫式部が『紫式部日記』に次のように書いている(訳も宮崎莊平[全訳注]『紫式部日記(上)』
[講談社学術文庫,2002]から引く)〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
・・・小少将の君の、いとあてにをかしげにて、世を憂しと思ひしみてゐたまへるを
見はべるなり。父君よりことはじまりて、人のほどよりは、幸ひのこよなく
おくれたまへるなめりかし。
・・・小少将の君が、とても上品で美しいのに、この世の中をつらいものと思いつめて
いらっしゃるのを見ているからなのです。父君(の出家)で不幸がはじまって、
その人柄の割合には、幸せにはひどく縁遠くていらっしゃるようなのです。
この件を、萩谷朴『日本古典評釈・全注釈叢書 紫式部日記全注釈 下巻』(角川書店,1973)は語釈で
次のように解説しているオホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)
永延元年(九八七)四月、父の右小弁源時通が出家した(『職事補任』)ことから
始まって、夫の源則理に見捨てられるなど、小少将の君は、その人がらの優秀さに比べて、
幸運に恵まれることが極めて乏しかったのである。父時通が出家したときには、兄の雅通は
ほぼ七歳、小少将の君はほぼ四歳(いずれも数え齢)、叔父たちもむしろ父より先んじて
出家しており、祖母の穆子が引き取って育てるといった心細い身の上であった。・・・
藤原実資の日記『小右記』の長和2年(1013年)7月29日の条の一部を、倉本一宏編『現代語訳 小右記6
三条天皇の信任』(吉川弘文館,2018)32~33頁の現代語訳で引く(⌒~⌒)
・・・丹波中将[源雅通]朝臣は、故左大臣〈(源)雅信。〉の忌日によって
参入することができない。・・・宰相中将[兼隆]が参入して云ったことには、
「早朝、左府に参った次いでに、右中将雅通が参入することができないということを
申しました。左府がおっしゃって云ったことには、『雅通は雅信丞相の養子である。
その忌日である。・・・』ということでした。・・・
兄の源雅通と一緒に幼い小少将の君は祖母の藤原穆子(源雅信の妻)に引き取られ育てられたので、
重篤の穆子から「いづらいづら」と探された「権少将」ならぬ「小少将」も彼女かとv( ̄∇ ̄)ニヤッ
「丹波の中将」源雅通とセットで描かれている点からしても、彼女の方が自然じゃないかな(⌒~⌒)
どこかで既に萩谷朴も『栄花物語』の同件の「権少将」は小少将の君だと書いてそうだけどね(^_^;)
なお、小少将の君を昔は源雅信と藤原穆子の子の源扶義の娘としてたが、『紫式部日記』各注釈書は
今は源時通の娘とする(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-01-12 )(⌒~⌒)
[追記240315]
「どこかで既に萩谷朴も・・・書いてそうだけどね(^_^;)」と書いたけど、萩谷朴・前掲書に書いて
ありましたm(__)m 同書の「語釈」の「小少将の君・大納言の君」の項を参照・引用したんだけど、
その後の「解説」の「紫式部と小少将の君との間」の項の最後の方に「因みに、『栄花物語』巻一二
に、長和五年八月二十六日の故左大臣雅信室穆子の卒去に関して、・・・」として既に指摘がm(__)m
中継」〉なる記事が「週刊プレイボーイ」に載ってるが、大昔にジョークを投稿して採用されたのに
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絶対に買ってやらんぞ(ノ ̄皿 ̄)ノダマスンジャネーヨ!┫:・’.:: メチャ読みたいけどね(-ω-、)
【読んだ本】
松村博司『日本古典評釈・全注釈叢書 栄花物語全注釈(三)』(角川書店,1972)
山中裕&秋山虔&池田尚隆&福長進(校注・訳)『新編日本古典文学全集33 栄花物語③』(小学館,1998)
『栄花物語』巻第十二「たまのむらぎく」には、長和5年(1016年)7月に死の床にあった藤原穆子、
「丹波の中将」(源雅通)と「権少将」がお傍から離れると「いづらいづら(どこへ行ったかどこへ
行ったか)」とお探しになられたという場面(´;ω;`)ウッ… 松村・本書331頁の「権少将」の語釈や
山中裕他・本書76頁は、この「権少将」を藤原兼経(父は藤原道綱、母は源雅信と藤原穆子の娘)と
しているが、古記録に照らしてソレはありえないと一昨日に指摘したヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
それでは、この場面における「権少将」は、藤原兼経でないとするなら、誰なのであろうか(@_@;)
興味深いのは、この「権少将」は、松村・本書330頁の校異欄によると、校合異本の「西本願寺本」と
「富岡家旧蔵本」(甲・乙の二本ある)には「小少将」と表記されていることである(なお、松村・
本書も山中裕他・本書も底本は「梅沢本(旧三条西家本)」である)∑( ̄ロ ̄|||)ニャンですと!?
この点を松村・本書の「権少将」の語釈(同331~332頁)は次のように説明しようとしてた(@_@;)
・・・西本・古活字本などに、「小少将」とあるのは、「こん」(権)の撥音表記を
省略したものに、「小」を当てたか。・・・
あくまでも素人考えなんだけど、むしろ「小少将」の方が正しいのでは〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
この「小少将」は源雅信と藤原穆子の子の源時通の娘で「丹波の少将」源雅通の妹かとv( ̄∇ ̄)ニヤッ
小少将の君は一条天皇の中宮の藤原彰子(藤原道長の娘)に女房として仕えていたが、同僚で親友の
紫式部が『紫式部日記』に次のように書いている(訳も宮崎莊平[全訳注]『紫式部日記(上)』
[講談社学術文庫,2002]から引く)〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
・・・小少将の君の、いとあてにをかしげにて、世を憂しと思ひしみてゐたまへるを
見はべるなり。父君よりことはじまりて、人のほどよりは、幸ひのこよなく
おくれたまへるなめりかし。
・・・小少将の君が、とても上品で美しいのに、この世の中をつらいものと思いつめて
いらっしゃるのを見ているからなのです。父君(の出家)で不幸がはじまって、
その人柄の割合には、幸せにはひどく縁遠くていらっしゃるようなのです。
この件を、萩谷朴『日本古典評釈・全注釈叢書 紫式部日記全注釈 下巻』(角川書店,1973)は語釈で
次のように解説しているオホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)
永延元年(九八七)四月、父の右小弁源時通が出家した(『職事補任』)ことから
始まって、夫の源則理に見捨てられるなど、小少将の君は、その人がらの優秀さに比べて、
幸運に恵まれることが極めて乏しかったのである。父時通が出家したときには、兄の雅通は
ほぼ七歳、小少将の君はほぼ四歳(いずれも数え齢)、叔父たちもむしろ父より先んじて
出家しており、祖母の穆子が引き取って育てるといった心細い身の上であった。・・・
藤原実資の日記『小右記』の長和2年(1013年)7月29日の条の一部を、倉本一宏編『現代語訳 小右記6
三条天皇の信任』(吉川弘文館,2018)32~33頁の現代語訳で引く(⌒~⌒)
・・・丹波中将[源雅通]朝臣は、故左大臣〈(源)雅信。〉の忌日によって
参入することができない。・・・宰相中将[兼隆]が参入して云ったことには、
「早朝、左府に参った次いでに、右中将雅通が参入することができないということを
申しました。左府がおっしゃって云ったことには、『雅通は雅信丞相の養子である。
その忌日である。・・・』ということでした。・・・
兄の源雅通と一緒に幼い小少将の君は祖母の藤原穆子(源雅信の妻)に引き取られ育てられたので、
重篤の穆子から「いづらいづら」と探された「権少将」ならぬ「小少将」も彼女かとv( ̄∇ ̄)ニヤッ
「丹波の中将」源雅通とセットで描かれている点からしても、彼女の方が自然じゃないかな(⌒~⌒)
どこかで既に萩谷朴も『栄花物語』の同件の「権少将」は小少将の君だと書いてそうだけどね(^_^;)
なお、小少将の君を昔は源雅信と藤原穆子の子の源扶義の娘としてたが、『紫式部日記』各注釈書は
今は源時通の娘とする(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-01-12 )(⌒~⌒)
[追記240315]
「どこかで既に萩谷朴も・・・書いてそうだけどね(^_^;)」と書いたけど、萩谷朴・前掲書に書いて
ありましたm(__)m 同書の「語釈」の「小少将の君・大納言の君」の項を参照・引用したんだけど、
その後の「解説」の「紫式部と小少将の君との間」の項の最後の方に「因みに、『栄花物語』巻一二
に、長和五年八月二十六日の故左大臣雅信室穆子の卒去に関して、・・・」として既に指摘がm(__)m