昨日からマウスが赤くピコピコ点滅してるけど、乾電池一本をヨドバシに届けてもらうのもナンだし、
ヨドバシまで買いに行くとしてマスク一枚使うというのもナンですなぁ〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

【読んだ本】

横井清(訳)『新井白石「読史余論」現代語訳』(講談社学術文庫,2012)

泰斗であられる坂本太郎が『史書を読む』(中公文庫,1987→1992三版)で「近代史学の創始者として
仰がれる新井白石」と記してるほど、白石の著書『読史余論』は凄いのだよオホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)

林屋辰三郎『日本の歴史12 天下一統』(中公文庫,1974)から引いとく〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

    ・・・かくして信長は山門の焼討ちを決行する。日吉社はじめ延暦寺の堂塔
    ことごとくに放火し、いったん焼け残ったものにも見つけしだい重ねて放火し、
    一宇も余そうとしなかった。延暦寺衆徒はもとより坂本町方の土民など無辜の民衆も
    数多く死んだ。ここに八百年の伝統をもつ山門は滅亡したのである。/この一事は、
    すでに去年の山門包囲にあたって、信長より山門にたいし、一山焼払いの警告を
    していたので、これに従わなかった叡山に責任を帰して説明されるのがふつうである。
    そしてまた叡山の山内は、出家の作法が忘れられるほどに腐敗していた事実をあげて、
    放火を弁護するのがふつうである。『甫庵太閤記』などが「山門ヲ亡ボス者ハ山門ナリ」
    といった批判をしているのも、その現われである。/たしかに当時の山門の状況には
    非難すべきものが多かったし、古代的勢力の拠点であったことも、源平争乱のとき以来
    ほとんど変わりがなかった。したがって信長の放火が、平重衡の南都焼討ちに比せられる
    のも不思議ではない。/しかしこのような信長の山門焼討ちにたいする意外なくらいな
    肯定と弁護の源泉が、いったいどこにあったかをさかのぼって考えてみると、実に
    新井白石に帰着するのである。儒者としての白石の立場から『読史余論』のなかで、
    「其事ハ残忍也ト雖、永ク叡僧ノ兇悪ヲ除ケリ、是亦天下ニ功有事ノ一ツ成ベシ」とし、
    これも英断として称讃したのがはじまりで、近代・現代の歴史学もまた、古代的権威の
    克服、宗教的束縛からの解放として、この行為を高く評価するにいたったのである。
    白石の歴史学における影響は、おどろくほどに大きい。/・・・
    
新井白石が織田信長の「比叡山焼き討ち」を論じた当該件を本書310頁から引くオホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ!

    /考えてみるに、中世より比叡山の僧徒は武器を帯び、ややもすると皇室を脅かした。
    代代の帝王や将軍・大臣らも恐れ、彼らのいうようにしていたから、その害悪は
    とてものこと仏教徒の行いとは思われなかった。しかし、信長は、その破壊無律ぶりを怒り、
    ついに山を焼き払った。そのこと自体は残忍ではあったが、永く比叡山の僧の兇悪を
    取り除いたのである。これもまた、天下の功績の一つにちがいない。/    

「足利家滅亡の因を論ず」という見出しが付された一節(本書313頁)の〆の部分も興味深い(⌒~⌒)

    ・・・/だから、足利殿の家は、管領のために弱められ、ついには陪臣のために
    亡んだのであった。/細川の家もその家臣に迫られて、また陪臣に威圧と福徳を
    ほしいままにされた。そうして、反逆の威力をふるった三好も松永もまた、
    その理屈にしたがって亡んだことは、実にこれみな、「爾[なんじ]より
    出[いで]て爾に帰る」との理[ことわり]と思われる。/

この「爾より出て爾に帰る」に付されている補注47(本書346頁)を見ると、〈『孟子』梁恵王下篇の
「爾より出ずる者は、爾に反[かえ]る者なり」による。善悪禍福みな自ら招くことをいう。〉と説明
されてるけど、コレは上述の『甫庵太閤記』の「山門ヲ亡ボス者ハ山門ナリ」にも通じる気が(@_@;)