不特定多数が集まり混雑する確定申告書類の作成・提出会場で感染したらシャレにならん((;゚Д゚)ヒィィィ!

【読んだ本】

関根慶子&山下道代『私家集全釈叢書16 伊勢集全釈』(風間書房,1996)所蔵本

駿台予備校で古文を教えてた高橋正治は『大和物語』に関する専門書を数冊出してるが、片桐洋一&
福井貞助&高橋正治&清水好子(校注・訳)『新編日本古典文学全集12 竹取物語 伊勢物語 大和物語
平中物語』(小学館,1994)の『大和物語』第30段の高橋正治による現代語訳にはチト疑問(@_@;)

    /故右京の大夫[源]宗于の君が、官位の昇進するはずのときに、
    自分が昇進できないとは、とお思いになっていたころ、亭子の帝[宇多天皇]に、
    紀伊の国から石のついた海松[みる]を奉ったことを題として、
    人々が歌を詠んだときに、右京の大夫がこのように詠んだ。

     沖つ風 ふけゐの浦に 立つ浪の なごりにさへや われはしづまむ

     (沖から風が吹いて、[紀伊国の]吹井の浦に波が立ちますが、
      石のついた海松のような私は、その余波によってまでも
      波打ちぎわにもうち寄せられず、底に沈んだままでいるのでしょうか) 

「石のついた海松」は紀伊国から献上されたのに、この歌の訳は「底に沈んだまま」ヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ
この歌は雨海博洋&岡山美樹(全訳注)『大和物語(上)』(講談社学術文庫,2006)が「伊勢集には、
伊勢の歌としてある。」と指摘しているのに対して、そのことを高橋正治の頭注は言及せず(´ヘ`;)
そこで、本書から、この歌の「通釈」と、この歌への批評の一部を引く〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

    吹飯[ふけひ]の浦に立つ波が引いて行ったあとには、海中のものがうちあげられて
    残っている。それなのに私は、こうした波のなごりのようなものにすらなることもできず、
    いつまでも海の底に沈んでいなければならないのだろうか。

    /『大和物語』三十段には、「故右京の大夫宗于の君、・・・人々歌よみけるに、
    右京の大夫」としてこの歌がある。すなわちこれは、右京大夫源宗于が、献上された
    石つきの海松に寄せて、わが身の不遇を嘆いた歌。石つきの海松というような
    海中のものさえ、こうして晴れの日にあうことがあるというのに、自分はなぜ、
    当然昇進してもいいはずの時にさえ昇進できないのかと、そのつらさを詠んだもの
    である。・・・

『大和物語』には自らの不遇を歌でウダダに訴えた人は他にもあり、源宗于は第32段でも訴えるが、
その歌をウダダは「なんのことだろうか。この歌の意味がわからない」(高橋正治訳)と言った由、
道真もあっさり見捨て、この世はわたしのためにある的自己チュー享楽主義ウダダを頼っても(^_^;)