昨日5ちゃんねるに繋がらなかった(´・_・`) オリックス・バファローズ、宮城谷昌光、楽天ラッキーくじ
のスレを毎日チェックしてるだけなんだけど(^_^;) 一方、個人的な感覚かもしれないけど、同じ本でも
太陽光の下では老眼鏡ナシで読めるのに、電球、蛍光灯、LEDだと老眼鏡ナシでは読めない謎(@_@;)

【読んだ本】

フェーブル(田辺裕訳)『大地と人類の進化 歴史への地理学的序論 下巻』(岩波文庫,1972)所蔵本

以下は巻末の田辺裕による「訳者あとがき」の後半部分に拠った(^^) 本書の上巻は飯塚浩二の訳で
1941年に刊行も、下巻は学生時代の田辺裕を含め「事情をしらぬ読書子」が古本屋でも見付けられず、
「幻の文庫本」と( ̄◇ ̄;) 1967年3月の飯塚浩二の東京大学最終講義で、大塚久雄がその点に触れ、
その完訳を強く望む発言をしたらしいが、フランス留学中だった田辺裕はその辺の事情は知らないし、
飯塚浩二が退官直後に夫婦で渡仏し羊羹を持って田辺裕を訪ねるも留守で、そのことを田辺裕は後に
手紙で知ったとか(^_^;) 帰国した田辺裕は飯塚浩二からの留学に関する「口頭試問」に耐える自信が
無くて挨拶状や雑誌論文を送るだけで逃げていたが、フランスでは五月危機、帰国後には東大紛争に
巻き込まれてヘトヘトの1969年晩夏、入院中の飯塚浩二が会いたいと言ってると人伝に聞く( ̄◇ ̄;)

    ・・・三年半ぶりにお会いした先生は、ダンディな雰囲気はそのままながら、
    弱々しく、いたいたしかった。そして本書の下巻の訳出をやってほしいと言われた。
    『大学紛争の間は翻訳でもポツポツやるにかぎる……急がなくたっていいのだから……』
    と続けられた。/私は、なぜ私に、と聞かざるを得なかった。なぜなら、先生を指導教官
    とした新進の社会・経済地理学者は少なくなく、他方、私は、同じ大学ではあるが
    教養学科人文地理学分科の出身であり、学界雀がむしろ先生に対置させる木内信蔵先生を
    指導教官として来た。言ってみれば、私は飯塚先生に対して師弟の礼をとらなかった。
    直接研究に関係する思い出は、私の修士論文審査で、先生が一行一行にわたる
    詳細な批判を行なわれたこと、それに対して私が反批判の手紙を徹夜で書いたこと、
    博士論文の審査で、冒頭から、いいじゃないかと私の緊張感をほぐして下さったこと、
    その程度である。/私の疑問に対して、飯塚先生は、「わたしはこの吉利内科を
    昔から知っているんだ……」と入院されている内科の歴代教授名をあげて話題を
    そらせてしまった。「君は、わたしがヴィダル[・ドゥ・ラ・ブラーシュ
    『人文地理学原理』(岩波文庫,1940→1970改訳)上・下巻]に取りかかった頃と
    同じ年頃だね……」とも言った。三十年前のことである。先生と私の年の差は
    かっきり三十歳である。私の承諾に対して、「よかった、これで思い残すことはない」と、
    その安堵の表情が、私にはとても哀しかった。それが先生と二人でゆっくり話をした
    最初であり最後であった。/・・・

翌1970年春に上巻の改訳原稿が届き、2月と7月に葉書で遣り取りをし9月に電話で長話をした(´・_・`)
   
    ・・・/十二月、先生の訃報を受けた。「急ぐことはない」との言葉に甘えていた
    自分の怠惰をせめた。・・・ついに一度も、下巻の原稿を見ていただかなかった。
    翌年七月、上巻が[飯塚浩二による改訳で]出版された。だが下巻の訳了は
    先生の一周忌の折であった。終って、私は、「師弟関係がなかった」の前言とは別に、
    先生が私の恩師となっていることを知った。翻訳を通じて教えを受けたのである。/・・・

〈ちょっといい話〉、てゆーか、〈いい話〉(´;ω;`)ウッ… 飯塚浩二の各発言内容も深読みすれば、
ヨリしみじみと感じられる(-ω-、) 小生が思うに、上巻原稿、葉書の遣り取り、電話での長話などに
限らず、下巻の翻訳を任せてもらったこと自体が「教え」=〈指導〉だったのではないかと(-ω-、)
他方で、指導教官・教授との「師弟関係」の方は、こんなに美しくなく、ドロドロしてる気が(^_^;)