「5/31放送の『サザエさん』は、〝波平、まだまだ頑張る〟というタイトルで、ワカメに妹ができた
ストーリーだった。」という投稿が、読者投稿欄「大読者天国」に掲載された「週刊プレイボーイ」
1994年6月28日号を書庫で発見(@_@;) 「採用者には洩れなく5千円を送らせていただきます。」と
あるが、未だに届かないぞ(-"-) ・・・で始まる過去記事への訪問者が昨日多かったという謎(@_@;)

【読んだ本】

五味文彦&本郷和人(編)『現代語訳 吾妻鏡7 頼家と実朝』(吉川弘文館,2009)

本書の151~152頁の建暦元年(1211年)11月4日の記述に出てくる三善康信の発言が気になる(@_@;)

    四日、壬子。夜、雨が止んで、暁は風が冷たかった。申の刻に坊門黄門(忠信)の使者が
    (鎌倉に)到着した。これは(忠信が)勅勘を蒙った時、格別に(鎌倉から)特使が派遣
    されたことに、すぐにお礼を申し上げるべきであったのに、行幸以下の公事が続いて
    絶え間ないので、遅れてしまったという。先月二十二日に行幸が行われ、夜になって、
    朱雀門を造った大工国永以下の番匠ら(の身柄)を検非違使庁に給った。本国司はなお
    すぐに作事を完成させ、仮葺を造営するよう、勅定があったという。これらのことが、
    忠信の書状に記されていた。善信(三善康信)がこれを読み申した。このことについて
    将軍家(源実朝)が尋ねられることなどがあり、善信が申した。「この門は末代に
    ふさわしくないのではないでしょうか。その理由は、(藤原)通憲入道が内裏を
    造営しましたが、罪なくして斬罪に処せられました。治承の頃、大極殿・朱雀門が焼失し、
    建久九年にやっとこの門を造営すると、造営を担当した国務の一条二品能保父子が
    すぐに亡くなりました。元久の頃に後京極摂政殿(藤原良経)が額を書かれると、
    急に亡くなられました。今また造営上棟の後、(作事の担当を外されると坊門信清は)
    病気がたちまち回復して大臣となりました。(順徳の)御禊が行われ、またお帰りの時、
    御輿がまだ建礼門に入らないうちに、この朱雀門が倒れました。魏の文帝が臨幸の日に、
    離宮の南門が倒れました」。

この朱雀門造営に関わると不幸に遭うという話、何かの伏線かしら(@_@;) 流石に建保7年(1219年)
1月27日の源実朝暗殺の伏線じゃないよね(^_^;) これは××を暗示しているとか注に書けよな(^_^;)

ピーター・モース(著)高階絵里加(訳)『北斎 百人一首 うばがゑとき』(岩波書店,1996)という
愚書(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2019-04-24 )の188頁は三善康信の上記
発言で例示列挙されてる後京極摂政前太政大臣(藤原良経)について、

    ・・・名目上は将軍側についていたが、源氏にとっては明らかに脅威となりうる人物
    だったため、38歳で暗殺されている。・・・

と断定するが、三善康信の口振りには鎌倉幕府が「暗殺」したというニュアンスは読み取れない(^_^;)
鎌倉幕府が編纂した公的記録の『吾妻鏡』に「暗殺した」と記すわけがないと反論されるだろうが^_^;